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俳句「夏草や」(芭蕉)天274

句碑「夏草や」

【詩文】夏草や つわものどもが 夢の跡

 吟詠
  ♪ 夏草や 夏草や
     つわものどもが 夢の跡
     つわものどもが 夢の跡 ♪


吟詠:家元・横山岳精先生


芭蕉・曾良

【作者】松尾 芭蕉 寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日) 江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』がある。

北上川



【通釈】人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。
画像の説明
【鑑賞】藤原三代にわたる栄華も、今となっては夢のようであり、平泉の表門の跡は一里程手前にある。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。秀衡の館跡は、今では田や野原に変わり果て、秀衡が造らせた金鶏山だけが、その形をとどめている。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。 まずは、高館に上ってみたが、そこから見える北上川は、南部地方から流れ来る大河である。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。衣川は、泉ヶ城のまわりを流れ、高館の下で北上川と合流している。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。泰衡たちの屋敷跡は、衣が関を隔てたところにあり、南部地方からの出入り口を固めて蝦夷の侵入を防いだと見られる。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。それにしても、よりすぐった忠義心のある家来たちが高館にこもり功名を競ったが、そうして得られた功名も一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 杜甫の「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。荒廃した城にも春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」の詩を思い浮かべ、笠を置いて腰をおろし、いつまでも栄華盛衰の移ろいに涙したことであった。

名古屋城 (松口月城)続天189

松口月城

【作者】松口月城 明治20年(1887)~昭和56年(1981)。名は栄太。月城と号す。福岡市に生まれる。幼少より秀才の誉
     れ高く、熊本医学専門学校を卒業。18歳にして卒業して医者となり、世人を驚かせた。当時、久留米出身で熊本に
     住んでいた詩壇の重鎮・宮崎来城に漢詩を学び、以来この道を極め福岡に「月城吟社」を経営し、現代詩壇の雄と
     して活躍、書画にも秀でていた。昭和56年95歳で没。「月城詩集」がある。我が「岳精会会詩」?の作詩者でもある。
【語釈】名古屋城→徳川家康が西南諸大名に命じて慶長15年(1610)に着工し、同17年に完成。尾張徳川家の居城で、天
     守閣は加藤清正が造営、閣上には金の鯱が飾ってある。第二次大戦中、昭和20年戦火に遭い、本丸御殿の障壁
     画などを除き大半を焼失。昭和34年に再建され、大天守・小天守ともに復元された。今年(2010)は「名古屋開府
     400年」に当り更なる復元が進められている。金麟→金で造った鱗、金鯱。燦爛→キラキラ光り輝くさま。高甍→高いいらか、高い瓦屋寝。登臨→高いところに登って下を見渡すこと。秀立→きわだって抜きん出ている。金湯→「金城湯池」の略で、金で造ったような堅固な城と、煮えたぎる湯をたたえて人の近寄れない池。堅固な備え。

名古屋城と金鯱

【通釈】金の鯱鉾が高い瓦屋根の上で燦爛と輝いている名古屋城に、今日登って下界を見渡す
     と、何とも云えない壮大な気分が胸中に湧き起る。天守閣はまるで雲を衝かんばかりに聳
     え立ち、堅固な備えをする名古屋城は実に立派な城である。
【鑑賞】金の鯱鉾と天守閣を誇る名古屋城は、天下の名城として名高い。別名金鯱城・金城ともい
     われる。作者は、この名城に登城してみて、その眺めにあらためて驚き感嘆したものであろ
     う。承句「今日登臨無限の情」は、その感激を端的に表現している。



乃木将軍を挽す(杉浦重剛)天194

【作者】杉浦重剛 1855~1924 明治・大正時代の教育家。近江膳所藩の儒者・杉浦重文の次男として生まれ、16歳のとき藩の貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入り英学を修め、22歳で英国に留学、化学を研究したが、在英5年ののち病で帰国。その後大学予備門の校長、文部省参事官などを歴任。この間東京英語学校を創立、また新聞記者となり、雑誌「日本人」の発刊に尽力し、欧化主義に反対して日本主義を唱えた。 外相大隈重信の条約改正案を批判して反対運動を起こした。滋賀県選出の代議士となったが1年で辞し、国学院大学・東宮御学問所などに勤めたが、大正13年70歳で病没。人格高潔・識見卓抜、偉大な教育家であり、一世の師表として仰がれた。
【語釈】→死を悼んで詩歌を作ること。元は葬儀の棺を乗せた車を曳く時に歌ったうた。輓歌。赤城熱血→切腹した赤穂四十七士の忠烈をいう。「赤
     城」は播州赤穂城。乃木将軍は江戸の長州候上屋敷内で生まれた。そこはかって赤穂四十七士の一部の者がお預けになり自刃した所で、将
     軍の父は四十七士を武士の鑑として常に語り聞かせたという。「熱血」といったのは、激しい真心というだけでなく、切腹したことにかけて云って
     いる。余瀝→後に残したしずく。今も残る影響。将軍の体内に忠義の精神を残し、将軍は君の為に切腹している。もとは杯の酒などの余ったし
     ずくを云い、転じて人の恩恵に例える。ここでは「熱血」をうけて「余瀝」といった。松下遺風→松下村塾の吉田松陰の影響。将軍は伯父(玉木
     文之進・吉田松陰の叔父で師)の薫陶をうけ、その影響は多大であった。「遺風」は「松下」の縁語でもある。伝不言→教えなくても自然に伝
     わる。松陰が直接教えなかったことも含めている。心事→心に思う事柄。心中の考え。明明還白白→きわめて明白で、純粋ではっきりしている
     「白」もあきらか。神州→神国。わが国の美称。正気→万物の根源である純粋な気。粋な気。

乃木将軍

【通釈】乃木将軍は赤穂浪士割腹の屋敷に生まれ、その影響を受けて育った。青年期には、伯父・玉木文之進から松
     下村塾の教えを受け、その感化により勤皇の志が厚かった。明治天皇に殉じて自殺を遂げたがその心中は誠
     に明明白白で、至誠純忠以外の何物でもないのである。わが神国日本に存在する正気の尊厳が、将軍の殉死
     によってはっきりと世に示されたのである。
【鑑賞】起・承は将軍の人間形成の素因が、その環境と薫陶にあることをいい、屈折を含んできめ細かい表現なのに
     対し、転・結は直線的で地強く簡潔な句である。転句では、よく将軍の心事を知る作者の認識の確かさを見せ
     ており、結句では、わが神国日本に存する天地正大の気の顕現として将軍を称賛しており、読者をして粛然
     として襟を正さしめるものがある。

【解説】この詩は作者が純忠無比の武人として敬重していた乃木将軍が、大正元年9月13日、明治天皇御大葬の夜、これに殉じて自刃したのを痛惜
     して作ったものである。

野の仏(福田蓼汀)人179  

福田蓼汀

【作者】福田蓼汀 1905~1988 昭和時代の俳人。山口県萩市出身の福田彦助陸軍中将の長男として生まれた(本
     名、幹雄)。昭和15年東北帝国大学在学中小宮豊隆教授の紹介状により『ホトトギス』の高浜虚子門に加わる。
     とくに同世代の中村草田男、松本たかしらと親交を結び、23年みずからも『山火』を主宰した。写生を尊重しつつ
     も山岳俳句に独自の句境をひらく。と同時に昭和45年次男善明の奥黒部遭難により、涙の絶唱「秋風挽歌」
     30句により第四回蛇笏賞を受賞した。だが重なる探索行にも遺体はついに発見できなかった。一方、俳人協会
     設立に参画し、長年幹事・理事を務め、没時には副会長の要職にあった。昭和63年1月18日死去。82歳。
【語釈】追分→道が左右にわかれる所。時雨→秋から冬にかけてのにわか雨。往還→道路、往来、往復。去来→行った
     り来たりすること。ゆきき。盛衰→物事が盛んになったり衰えたりするさま。虚飾→うわべだけ飾ること。慈愛→
                         いつくしみ愛すること。

野の仏

【通釈】村はずれの追分の泉の辺にある樹の下にたたずむ野仏は、秋風に吹かれ時雨に遭い、首まで雪に埋もれなが
     ら春は未だかと手を合わせている。春になり散落ちる花びらを浴び、夏ともなると賑やかな蝉時雨を聴いている。
     傾いたまま欠け落ちたままの姿で、じっと静かにたたずむ石仏さん。何時から居られるのか記録もなく風化した
     ままで、道を往き来きし盛衰をくりかえす人間の世界を、じっと見守っておられる。野仏には、飾り気のない人間
     の願いや慈しみの愛情が込められている。社会の移り変わりを超越した真実の心の現れのように思われる。
【鑑賞】路傍にたたずむ名も無き野仏を見守る作者の心情が、切々と胸に迫ってくる詩である。山岳俳句に独自の句境
                         を開いた作者ならではの作品と云えよう。
【参考】佐鳥俊一著・写真集「群馬の石仏」(一九七五年)に添えられた著者の一文を紹介する。
     石仏はその容姿ばかりでなく、過疎地帯の集落、野の小径、草むらの中、旧街道、寺院の入口、村落の四っ辻、塚の上、山道、国境などに、
     むかしのままの姿でたたずんでいることに、現代人の懐古と郷愁がある。石仏はいわば現代人のこころのささえとなっている。私たちはこのよう
     な環境にある石仏のありかをたずね、むかしながらの石仏をおがみ、行く雲を見、緑の山、残雪の山、山あいの村落、野鳥の声、谷川のせせら
     ぎ、松籟の声など見ききしながら悠久の自然境にポツンと生きている自分をむかしの世界に生かし、ひとときでも煩雑な現代から脱出できること
     をねがっている。私は、花の咲く頃にはあらかじめ石仏にふさわしい花を持って手向け、写真を撮ったりする。草むらや四っ辻などに二百余年も
     立ちつくしている姿に接すると、せめて花でも手向けてやらなければという、いわば仏ごころが湧いて来るのである。カラー写真は色と色との触
     れ合いがいちばんの要素でもあるので、仏ごころと、納得した写真をとりたいという私の願いが重なり合って、このようなことになるものだと思っ
     ている。春ともなると、コスモス、金仙花などの種子を持参したり、ツツジなどの苗木など石仏の傍にまき植える。たまたま石仏を撮影に来た同
     好の人達が、はからずもコスモスの咲いている石仏を眺めて微笑むすがたを思い浮べながら私もひそかに微笑んでいる。古い寺や村落を歩
     き、そこに石仏があれば、それをたんねんに眺め納得がゆけばカメラを向け撮影する。対象の石仏の年代、由来、形容など調査することは少し
     く億劫勝ちとなっている。もともと石仏自体は、仏教信者の信仰心により名もない石工の手により造られたもので、永い歳月風雪にさらされてい
     たものを、現代人の趣味と信仰により再認識されたもの、必要以上にこれを理論づけすることはない。また著名な仏像と関連比較する必要もな
     い。野の石仏は所詮世相にてらうことのない謙虚な庶民階級の心の表われである。
この詩をスライドショー?で味わってみましょう、吟詠は三河岳精会々長 深浦精正先生です。
”・・・野の仏には虚飾なき人間の願望や 慈愛の情がこめられている・・・” 切々と胸に迫ります


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