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風林火山 (武田信玄)人207

風林火山

【作者】 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。


【解説】「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は、『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進退について書いた部分にある文章を、部分的に引用したものである。これは「(〜そこで、戦争というものは敵をだますことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。)だから、(軍隊が)移動するときは風のように速く、陣容は林のように静かに敵方の近くでも見破られにくく、攻撃するのは火のように勢いに乗じて、どのような動きに出るか判らない雰囲気は陰のように、敵方の奇策、陽動戦術に惑わされず陣形を崩さないのは山のように、攻撃の発端は敵の無策、想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら実行されるべきであると言う意味である。難知如陰は其徐如林と、動如雷霆は侵掠如火と、意味的に重複する部分が多いので旗印からは割愛されている。

川中島古戦場

川中島古戦場銅像
          川中島古戦場          川中島古戦場銅像 (武田信玄         上杉謙信)

第四次布陣図

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。


第一次合戦:天文22年(1553年)
第二次合戦:天文24年(1555年)
第三次合戦:弘治3年(1557年)
第四次合戦:永禄4年(1561年)八幡原の激戦
第五次合戦:永禄7年(1564年)

          第四次合戦布陣図
教本詩文

半夜(良寛)天199

良寛

【作者】良寛 江戸後期の禅僧。寶暦八年(1758年)~天保二年(1831年)。漢詩人。歌人。越後国(現・新潟県)出雲崎の人。俗姓は山本。名は栄蔵、後、文孝と改める。号は大愚。諸国を行脚、漂泊し、文化元年、故郷の国上山(くがみやま)の国上寺(こくじょうじ)に近い五合庵に身を落ち着けた。晩年、三島(さんとう)郡島崎に移った。高潔な人格が人々から愛され、子供達も慕ったが、人格の奇特さを表す逸話も伝わっている。ただ、遺されている漢詩は陰々滅々として、類例を見ないほど暗いものである。
【語釈】半夜→よなか。夜半。回首五十有餘年→思い返せば、この五十数年間。回首→後をふり返る。首を巡らす。五十有餘年→五十数年で、良寛のこの時までの人生の長さ。人間是非一夢中→「人間の是非は一夢の中」(わたしがこの人の住む世界に(生まれたことについての)善悪の判断は、一度の夢である。)。これが一般的に行われているようだが、「人間 是か非か  一夢の中」(わたしがこの人の住む世界に(生まれたことについて)それが善かったのか、悪かったのか(それらのものを共に取り合わせた)一度きりの夢である)。人間→〔じんかん〕現世。世間。人の住む世界。天上。是非→善悪の判断を下す。山房五月黄梅雨→山にある庵に梅雨(つゆ)の雨が。山房→山にある家。山の寺。五月→旧暦五月で、今の六月後半から七月。梅雨(つゆ)時。皐月。黄梅雨→つゆ。五月雨(さみだれ)。半夜蕭蕭灑虚窗→夜中に、もの寂しく何もない窓辺に降り注いでいる。蕭蕭→風がもの寂しく吹くさま。本来は、深く静かなことになるが、屡々風の形容として使われる。灑→そそぐ。散らす。虚窓→何も物のない窓辺。
【通釈】これまで五十余年の生涯を振りかえってみると、人間社会には、是も非も善も悪も、全て夢のうちのように感じられる。夜中に一人この山房(五合庵)に坐して、物思いにふけっていると、さみだれが、しとしとと窓に降りそそいでいる。
【解説】この詩は、漢詩の厳格な方式にはかなってなく、平仄も合ってないが、良寛はあまり、形式にこだわってない詩が多い。現代版、山頭火といったところだろうか。しかし、世を捨てた人の心境を詠った詩風は、時世、世代を超え多くの人に共感を呼びます。類似詩に「夜雨」(続天230)がある。

不識庵機山を撃つの図に題す(頼山陽)天210

頼 山陽

【作者】頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、大坂江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀)に私塾「青山社」を開いた。山陽はこの頃の安永9年(1781年)に誕生した。母は飯岡義斎の長女で梅颸の雅号を持つ文人であり、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。春水が江戸在勤となったため叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。なお、『日本外史』の初稿が完成したのもこのときといわれる。謹慎を解かれたのち、文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父・春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818年)には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中・松平定信に献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家・菅井梅関・尾張出身の南画家・中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工・青木木米、そして遠く九州から文人画家・田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという。また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。京都円山公園・長楽寺に葬られた。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤がいる
【語釈】題不識庵撃機山圖→不識庵が機山を撃った(場面の)絵に基づいて詩を作る。題…圖→…の絵について詩を作る。不識庵→上杉謙信の号。戦国時代の武将。戦国大名。1530年(享禄三年)~1578年(天正六年)。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎。後、政虎。(更に、上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られた後、)輝虎と改める。出家後は不識庵謙信と号する。北陸地方一帯を領有。武田氏との川中島の合戦は有名で、この詩は、永禄四年(1561年)、上杉が武田の本陣を衝いた時のうた。撃→うつ。(太刀などの)物で強くうつ。 機山→武田信玄の号。戦国大名。1521年(大永元年)~1573年(天正元年)。当代一流の戦略・戦術家。甲斐源氏の武田信虎の嫡男。名は晴信。号は德榮軒。法号は法性院信玄、機山大居士。信越国境で上杉謙信と対立し、永禄四年、上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いを行って信濃を平定した。その後、飛騨・北関東・駿河に進出し、甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江等の大領国を形成した。後、上洛の途上、三河で病を発し、没した。鞭聲肅肅夜過河→(上杉謙信の率いる軍勢の)鞭の音も静かに、夜に河を渡る(作戦で進軍し始め)。肅肅→〔しゅくしゅく〕うやうやしいさま。厳正なさま。速やかなさま。羽ばたきの音の形容。松風の音の形容。静かなさま。深いさま。清いさま。ひきしまって厳粛なさま。夜→夜に。軍が進発した時が「夜」で、目的地に到達したのが「曉見千兵擁大牙」の「暁」になる。過河→川を渡る。曉見千兵擁大牙題不識庵撃機山圖→不識庵が機山を撃った(場面の)絵に基づいて詩を作る。題…圖→…の絵について詩を作る。不識庵→上杉謙信の号。戦国時代の武将。戦国大名。1530年(享禄三年)~1578年(天正六年)。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎。後、政虎。(更に、上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られた後、)輝虎と改める。出家後は不識庵謙信と号する。北陸地方一帯を領有。武田氏との川中島の合戦は有名で、この詩は、永禄四年(1561年)、上杉が武田の本陣を衝いた時のうた。撃→うつ。(太刀などの)物で強くうつ。 機山→武田信玄の号。戦国大名。1521年(大永元年)~1573年(天正元年)。当代一流の戦略・戦術家。甲斐源氏の武田信虎の嫡男。名は晴信。号は德榮軒。法号は法性院信玄、機山大居士。信越国境で上杉謙信と対立し、永禄四年、上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いを行って信濃を平定した。その後、飛騨・北関東・駿河に進出し、甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江等の大領国を形成した。後、上洛の途上、三河で病を発し、没した。鞭聲肅肅夜過河→(上杉謙信の率いる軍勢の)鞭の音も静かに、夜に河を渡る(作戦で進軍し始め)。肅肅→〔しゅくしゅく〕うやうやしいさま。厳正なさま。速やかなさま。羽ばたきの音の形容。松風の音の形容。静かなさま。深いさま。清いさま。ひきしまって厳粛なさま。夜→夜に。軍が進発した時が「夜」で、目的地に到達したのが「曉見千兵擁大牙」の「暁」になる。過河→川を渡る。曉見千兵擁大牙題不識庵撃機山圖→不識庵が機山を撃った(場面の)絵に基づいて詩を作る。題…圖→…の絵について詩を作る。不識庵→上杉謙信の号。戦国時代の武将。戦国大名。1530年(享禄三年)~1578年(天正六年)。越後守護代長尾為景の子。初名は景虎。後、政虎。(更に、上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られた後、)輝虎と改める。出家後は不識庵謙信と号する。北陸地方一帯を領有。武田氏との川中島の合戦は有名で、この詩は、永禄四年(1561年)、上杉が武田の本陣を衝いた時のうた。撃→うつ。(太刀などの)物で強くうつ。 機山→武田信玄の号。戦国大名。1521年(大永元年)~1573年(天正元年)。当代一流の戦略・戦術家。甲斐源氏の武田信虎の嫡男。名は晴信。号は德榮軒。法号は法性院信玄、機山大居士。信越国境で上杉謙信と対立し、永禄四年、上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いを行って信濃を平定した。その後、飛騨・北関東・駿河に進出し、甲斐・信濃・駿河・西上野・遠江等の大領国を形成した。後、上洛の途上、三河で病を発し、没した。鞭聲肅肅夜過河→(上杉謙信の率いる軍勢の)鞭の音も静かに、夜に河を渡る(作戦で進軍し始め)。肅肅→〔しゅくしゅく〕うやうやしいさま。厳正なさま。速やかなさま。羽ばたきの音の形容。松風の音の形容。静かなさま。深いさま。清いさま。ひきしまって厳粛なさま。夜→夜に。軍が進発した時が「夜」で、目的地に到達したのが「曉見千兵擁大牙」の「暁」になる。過河→川を渡る。『宋史・列傳・卷三百六十・列傳第一百一十九・宗澤』に、「澤前後請上還京二十餘奏,毎爲潛善等所抑,憂憤成疾,疽發于背。諸將入問疾,澤矍然曰:『吾以二帝蒙塵,積憤至此。汝等能殲敵,則我死無恨。』皆流涕曰:『敢不盡力!』諸將出,澤歎曰→「『出師未捷身先死,長使英雄涙滿襟。』」翌日,風雨晝晦。澤無一語及家事,但連呼『過河』者三而薨。」と出る。「渡河」としないのは、平仄との関係でもある。「過河」は◎○(○○)で、「渡河」は●○。曉見千兵擁大牙:やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(上杉謙信の軍勢の)千兵が(謙信の)大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきて(武田軍を驚愕させた)。これは作詩者・頼山陽の著書である『日本外史・卷十一・武田氏上杉氏』(上掲の写真)の記述「全軍啣枚。縛馬舌。渉雨宮渡(起)。…曉未辨人色。見謙信牙旗在前(承)。將士皆失色。越後軍鼓而進。聲震地。…信玄脱走(結)。謙信追之。」に基づいての解釈であり、本人がそう叙述しているので、頼山陽の作詩意図は明確である。しかしながら、(『日本外史』の記述を見ることなく)詩作のみから解釈すれば、「やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」ととれる。「千兵擁大牙」が上杉軍の軍勢のことなのか、武田軍の軍勢のことなのか」ということである。この場合、七言絶句の格律や作詩法から判断すべきである。本来、中国の絶句は「起承転結」といった四部構成が主ではない。「鞭聲肅肅夜過河,曉見千兵擁大牙。」で一つのまとまりであり、主語、主部は一貫している。更に「見」は(「みる」とは訓むものの)「看」とは異なり、「みえる・あらわれる」の意であって、第一聯の意は「(上杉謙信率いる軍勢の)鞭聲が肅肅として、夜に河を渡る作戦で進軍して行くと、やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁して陣どっているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」になる。「曉見千兵擁大牙」部分を上杉軍の威容ととるのもあるが、詩の格律や作法、詩の構成から見て無理であろう。(勿論、その句のみを切り離して採り上げれば可能であり、『日本外史』を読めば作者の意図は明瞭になってくるのだが…。)曉→夜明けに(なる)。見→〔けん〕みえる。あらわれる。「(意図して)見る、見つめる」意ではない。千兵→多くの兵士。作者は謙信の軍旗を指す。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の軍勢。擁→〔よう〕いだく。持つ。とりかこむ。護(まも)る。大牙→〔たいが〕大きい軍旗。将軍の旗。象牙で飾ってあるため。牙旗。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の大将旗。遺恨十年磨一劍→残念なことに、十年という歳月を掛けて磨き上げてきた(我が=上杉謙信の)武略(にもかかわらず)。 *賈島の『劍客』に「十年磨一劍,霜刃未曾試。今日把似君,誰爲不平事。」とある。遺恨→残る恨(うら)み。晴らされない宿怨。十年→第一次川中島の戦い(天文二十二年=1553年)からこの第四次川中島の戦い(永禄四年=1561年)までの足かけ九年間、或いは、第五次川中島の戦い(永禄七年=1564年)までの十一年間に亘る川中島をめぐる上杉・武田両氏の戦い。ここでの「十年」は必ずしも正確な数値ではなく、前出・賈島『劍客』起源の成語を活用したことにもよる。磨一劍→武備を怠らないことを謂う。十年磨一劍→前出・賈島の『劍客』より成語となる。十年の間、一振りの剣を磨く。長い間、剣技を練る意の成語。常に刻苦奮励して努力を怠らなかったこと。流星光底逸長蛇→(上杉謙信が)振り上げた名刀のもとから、大物(の武田信玄を)逃がしてしまった。流星→名剣の名。また、白馬、羽書のような素速いものの形容に屡々使われる。光底→光の下で。流星光底→振り上げた名刀のもと。逸→逃がす。見すごす。長蛇→ここでは、武田信玄を指す。「長蛇」とは、大蛇。残忍で貪欲な者。目指す敵などを謂う。「長蛇」は「(シマヘビのような)長い蛇」というよりも「猛虎」の対にもなる勇猛な生き物の意で、「長」は「長鯨」(=巨鯨、大鯨)というのと同じ意。やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(上杉謙信の軍勢の)千兵が(謙信の)大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきて(武田軍を驚愕させた)。これは作詩者・頼山陽の著書である『日本外史・卷十一・武田氏上杉氏』(上掲の写真)の記述「全軍啣枚。縛馬舌。渉雨宮渡(起)。…曉未辨人色。見謙信牙旗在前(承)。將士皆失色。越後軍鼓而進。聲震地。…信玄脱走(結)。謙信追之。」に基づいての解釈であり、本人がそう叙述しているので、頼山陽の作詩意図は明確である。しかしながら、(『日本外史』の記述を見ることなく)詩作のみから解釈すれば、「やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」ととれる。「千兵擁大牙」が上杉軍の軍勢のことなのか、武田軍の軍勢のことなのか」ということである。この場合、七言絶句の格律や作詩法から判断すべきである。本来、中国の絶句は「起承転結」といった四部構成が主ではない。「鞭聲肅肅夜過河,曉見千兵擁大牙。」で一つのまとまりであり、主語、主部は一貫している。更に「見」は(「みる」とは訓むものの)「看」とは異なり、「みえる・あらわれる」の意であって、第一聯の意は「(上杉謙信率いる軍勢の)鞭聲が肅肅として、夜に河を渡る作戦で進軍して行くと、やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁して陣どっているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」になる。「曉見千兵擁大牙」部分を上杉軍の威容ととるのもあるが、詩の格律や作法、詩の構成から見て無理であろう。(勿論、その句のみを切り離して採り上げれば可能であり、『日本外史』を読めば作者の意図は明瞭になってくるのだが…。)曉→夜明けに(なる)。見→〔けん〕みえる。あらわれる。「(意図して)見る、見つめる」意ではない。千兵→多くの兵士。作者は謙信の軍旗を指す。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の軍勢。擁→〔よう〕いだく。持つ。とりかこむ。護(まも)る。大牙→〔たいが〕大きい軍旗。将軍の旗。象牙で飾ってあるため。牙旗。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の大将旗。遺恨十年磨一劍→残念なことに、十年という歳月を掛けて磨き上げてきた(我が=上杉謙信の)武略(にもかかわらず)。 *賈島の『劍客』に「十年磨一劍,霜刃未曾試。今日把似君,誰爲不平事。」とある。遺恨→残る恨(うら)み。晴らされない宿怨。十年→第一次川中島の戦い(天文二十二年=1553年)からこの第四次川中島の戦い(永禄四年=1561年)までの足かけ九年間、或いは、第五次川中島の戦い(永禄七年=1564年)までの十一年間に亘る川中島をめぐる上杉・武田両氏の戦い。ここでの「十年」は必ずしも正確な数値ではなく、前出・賈島『劍客』起源の成語を活用したことにもよる。磨一劍→武備を怠らないことを謂う。十年磨一劍→前出・賈島の『劍客』より成語となる。十年の間、一振りの剣を磨く。長い間、剣技を練る意の成語。常に刻苦奮励して努力を怠らなかったこと。流星光底逸長蛇→(上杉謙信が)振り上げた名刀のもとから、大物(の武田信玄を)逃がしてしまった。流星→名剣の名。また、白馬、羽書のような素速いものの形容に屡々使われる。光底→光の下で。流星光底→振り上げた名刀のもと。逸→逃がす。見すごす。 ・長蛇→ここでは、武田信玄を指す。「長蛇」とは、大蛇。残忍で貪欲な者。目指す敵などを謂う。「長蛇」は「(シマヘビのような)長い蛇」というよりも「猛虎」の対にもなる勇猛な生き物の意で、「長」は「長鯨」(=巨鯨、大鯨)というのと同じ意。やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(上杉謙信の軍勢の)千兵が(謙信の)大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきて(武田軍を驚愕させた)。これは作詩者・頼山陽の著書である『日本外史・卷十一・武田氏上杉氏』(上掲の写真)の記述「全軍啣枚。縛馬舌。渉雨宮渡(起)。…曉未辨人色。見謙信牙旗在前(承)。將士皆失色。越後軍鼓而進。聲震地。…信玄脱走(結)。謙信追之。」に基づいての解釈であり、本人がそう叙述しているので、頼山陽の作詩意図は明確である。しかしながら、(『日本外史』の記述を見ることなく)詩作のみから解釈すれば、「やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁しているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」ととれる。「千兵擁大牙」が上杉軍の軍勢のことなのか、武田軍の軍勢のことなのか」ということである。この場合、七言絶句の格律や作詩法から判断すべきである。本来、中国の絶句は「起承転結」といった四部構成が主ではない。「鞭聲肅肅夜過河,曉見千兵擁大牙。」で一つのまとまりであり、主語、主部は一貫している。更に「見」は(「みる」とは訓むものの)「看」とは異なり、「みえる・あらわれる」の意であって、第一聯の意は「(上杉謙信率いる軍勢の)鞭聲が肅肅として、夜に河を渡る作戦で進軍して行くと、やがて明け方となり、早曉の靄(もや)がだんだんと霽(は)れてきて、(武田軍の)千兵が大牙を擁して陣どっているのが、朝靄の中から見えてきた。(大将旗の下に多くの兵士がいるということは、武田信玄の本陣に違いなかろう。⇒上杉謙信は軍勢の突撃を命じた。)」になる。「曉見千兵擁大牙」部分を上杉軍の威容ととるのもあるが、詩の格律や作法、詩の構成から見て無理であろう。(勿論、その句のみを切り離して採り上げれば可能であり、『日本外史』を読めば作者の意図は明瞭になってくるのだが…。)曉→夜明けに(なる)。見→〔けん〕みえる。あらわれる。「(意図して)見る、見つめる」意ではない。千兵→多くの兵士。作者は謙信の軍旗を指す。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の軍勢。擁→〔よう〕いだく。持つ。とりかこむ。護(まも)る。大牙→〔たいが〕大きい軍旗。将軍の旗。象牙で飾ってあるため。牙旗。詩の格律や作法、詩の構成から見れば武田方の大将旗。遺恨十年磨一劍→残念なことに、十年という歳月を掛けて磨き上げてきた(我が=上杉謙信の)武略(にもかかわらず)。 *賈島の『劍客』に「十年磨一劍,霜刃未曾試。今日把似君,誰爲不平事。」とある。遺恨→残る恨(うら)み。晴らされない宿怨。十年→第一次川中島の戦い(天文二十二年=1553年)からこの第四次川中島の戦い(永禄四年=1561年)までの足かけ九年間、或いは、第五次川中島の戦い(永禄七年=1564年)までの十一年間に亘る川中島をめぐる上杉・武田両氏の戦い。ここでの「十年」は必ずしも正確な数値ではなく、前出・賈島『劍客』起源の成語を活用したことにもよる。磨一劍→武備を怠らないことを謂う。十年磨一劍→前出・賈島の『劍客』より成語となる。十年の間、一振りの剣を磨く。長い間、剣技を練る意の成語。常に刻苦奮励して努力を怠らなかったこと。流星光底逸長蛇→(上杉謙信が)振り上げた名刀のもとから、大物(の武田信玄を)逃がしてしまった。流星→名剣の名。また、白馬、羽書のような素速いものの形容に屡々使われる。光底→光の下で。流星光底→振り上げた名刀のもと。逸→逃がす。見すごす。長蛇→ここでは、武田信玄を指す。「長蛇」とは、大蛇。残忍で貪欲な者。目指す敵などを謂う。「長蛇」は「(シマヘビのような)長い蛇」というよりも「猛虎」の対にもなる勇猛な生き物の意で、「長」は「長鯨」(=巨鯨、大鯨)というのと同じ意。
【通釈】(上杉謙信の軍は)ひっそりと鞭音もたてないようにして、夜のうちに千曲川を渡って(川中島の敵陣に)攻め寄せた。(武田方は)明けがた(霧の晴れ間に)(上杉方の)大軍が大将の旗を中心に守りながら、迫ってくるのを見つけた。(この戦いで謙信は信玄を討ちとることができなかったが、)(その心中を察すると、)まことに同情にたえない。この十年の間一ふりの剣を研ぎ磨いて、(その機会を待ったのであるが、)うちおろす刀一閃の下に、ついに強敵信玄をとり逃がしたのは無念至極なことであった。

川中島の戦い

【解説】詩吟と云うと「鞭聲肅肅(べんせいしゅくしゅく)ですか」と言われる有名な漢詩である。
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。
最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。

4回目の激戦「八幡原の戦い」

川中島の合戦で一番激しかったと言われる4回目の激戦「八幡原の戦い」武田軍がとった[啄木鳥の戦法]を上杉軍が察知 濃い霧の中はち合わせた両軍は、戦国史上他に例が無いと言われる程の激戦いを行った
千曲川雨宮の渡しを渡り兵を進める様子をうたったのが「鞭声粛々 夜河を渡る」信玄は謙信の後ろに兵を回し追い出した所を川中島で挟み撃ちにしようとした察した謙信は深夜2時過ぎかがり火を炊き、少数の兵を残してあたかもまだそこに陣があるように見せかけ兵を動かした。濃い霧の為どちらの軍も互いの所在が分からないまま突然混戦となった 双方入り乱れるなか、謙信は単身馬で信玄の本陣に乗り込み三太刀切りつけたが
信玄はこれを軍配で受け止めたと言われている この戦いでの死者総勢1万6千とも3万とも言われている
その数を考えるだけでも壮絶な戦いであった事が分かる 1553年~1564年までの12年間で更埴市から長野市一帯は5回にも渡る壮絶な激戦の舞台になった。

独り敬亭山に坐す(李白)続天208

【作者】李白:盛唐の詩人。字は太白。自ら青蓮居士と号する。世に詩仙と称される。701年~762年。西域・隴西の成紀の人で、四川で育つ。若くして諸国を漫遊し、後に出仕して、翰林供奉となるが高力士の讒言に遭い、退けられる安史の乱では苦労をし、後、永王が謀亂を起こしたのに際し、幕僚となっていたため、罪を得て夜郎にながされたが、やがて赦された。
【語釈】獨坐敬亭山→ひとりだけで敬亭山に坐って居る。後出の「衆鳥高飛盡」「孤雲」「獨去」「閒」などから、隠棲する意を込めている。獨坐→ひとりだけで居る。敬亭山→安徽省東南にある宜城市の北5キロメートルの水陽江に面した海抜317メートルの山。長江と黄山の間になる。元は昭亭山といった。李白の墓も近くにある。衆鳥高飛盡→多くの鳥は高く飛び去り。群をなす鳥は(自分たちの目的に向かって)飛び去り、作者のもとから去っていく。衆鳥→群れ飛ぶ鳥。また、「移ろいやすい多くの人々」の意を暗に示す。高飛→高く飛び去る。盡→つきる。ここでは、飛び去って見えなくなったことをいう。孤雲獨去閒→ぽつんと一つだけあった雲も流れ去って、今はゆったりと落ちついて静かである。また、一つだけあった雲も作者のもとから去っていった。作者の孤独感を暗示する。孤雲→ぽつんと一つだけある雲。獨去→独りだけで去って行く。閑→ゆったりと落ちついて静かなさま。ひっそりと静かなさま。ゆったりとしてのどかなさま。相看兩不厭→お互いに眺めあっていても、双方(山と作者)少しもあきがこないのは。眺め続けていても、二つとも(「敬亭山」と「わたし」)あきないのは。ながめていても少しもいやがらないのは。 相看→お互いに見あって。眺めていても。ここでの「相」は普通の散文で使われる「相互に」の意(前者の訳)と、詩詞に多い動作の働きかけ(「明月來相照」)の場合(後者の訳)とに考えられる。兩→双方。普通、山と人のこと。敬亭山と作者を指す。不厭→あきてこない。また、いやにならない。只有敬亭山→ただ敬亭山があるのみである(前者の訳)。ただこの敬亭山があるのみである(後者の訳)。ただ、敬亭山だけは(衆鳥や孤雲などとは違い)わたしをいやがってわたしのもとから去るということはしない。敬亭山のみがわたしの理解者である。只有→ただ…のみがある。

敬亭山

【通釈】たくさんの鳥も、今は残らず空高く飛び去って、一羽もいなくなった。ぽっかりと一片浮かんでいた雲も流れ去って、静けさが辺りをつつむ。独り閑に坐って山を眺めれば、ともに向かい合い見て、共に見飽きることのない敬亭山が目の前にあるだけだ。







武野の晴月(林 羅山)天217

林 羅山

【作者】羅山(らざん) 1583-1657  江戸時代初期の儒者。名は信勝、字は子信(ししん)、羅山は号、剃髪して道春と称した。京都に生まれ、建仁寺(けんにんじ)に入り、儒仏を学んだ。18歳のとき朱子学に志し、次(つい)で藤原惺窩(せいか)に師事する。1605年徳川家康に謁し、重用され幕府の顧問となり、家綱に至る四代の将軍に仕えて、教学や諸制度に参画した。上野忍岡(しのぶがおか)に別荘を建て家塾を開き、のち昌平黌が建てられた。羅山は世襲の大学頭林家(だいがくのかみはやしけ)の始祖となった。著書に「本朝編年録」「寛永諸家系図伝」その他多数ある。明暦3年正月23日没す。享年75。


【語釈】武野→武蔵野の原。武陵→湖南省にあった郡名で武州ともいった 武蔵の国に通ずるので江戸の意に用いられた。秋色→秋の気配。嬋娟→姿態の品がよいさま、あでやか。快然→さっぱりしていて気持ちのよいさま。輾破→車輪がめぐる しきのべること ここでは月の輪がめぐること。「輾」は車輪の回るさま、「破」は強意の助字。轍迹→車のわだちのあと ここでは月の輪だちの光のあと 月影の移ったあと。 

武野の晴月

【通釈】武蔵野は秋一色で月の光もうるわしい。広々とした平野は明るく晴れわたり気持ちがよい。月は青い空をまるで車輪がめぐる様に度(わた)ってゆくが、そのあとを残さない。見わたすかぎり草原は天と連なり、見あげると一輪の月が高くかかっている。







平泉懐古(大槻磐渓)天208

大槻磐渓

【作者】大槻磐渓:幕末・明治期の儒学者、蘭学者、砲術家。享和元年(1801年)~明治十一年(1878年)。江戸の人、仙台藩藩儒、藩医。字は士広で、通称は平次。盤渓は号。江戸の昌平黌に学び、頼山陽に称讃を受けた。ペリー来航時には開国論を建議、戊辰戦争の際は徹底抗戦を主張。奥羽列藩同盟の盟主に、仙台藩がなることに努める。
江戸木挽町に生まれる。仙台藩の藩儒で藩医。幕末明治期の蘭学者、砲術家。
大槻玄沢以後、大槻家は優れた学者を何人も輩出し、「西に頼氏あり、東に大槻氏あり」と称された。実際、仙台藩の学業は、養賢堂をはじめ大槻家の人材が多く担っている。また、特に有名な大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦の3代は、「大槻三賢人」と呼ばれた。玄沢の叔父・清慶の家系が一関の大槻宗家にあたり、さらにそこから仙台藩の職を歴任した大槻平泉の仙台分家、玄沢ら江戸に常駐した江戸分家に分かれた。



中尊寺

【語釈】平泉懐古→奥州平泉の昔のことをなつかしく思う。平泉→奥州藤原三代の栄えた地名。岩手県西磐井郡にあり、中尊寺もここにある。懐古→昔のことをなつかしく思う。三世豪華擬帝京→(奥州藤原氏の)三代の富貴を(凝らして)、天子のいる都に似せて。三世→奥州藤原氏の三代で、初代の清衡(きよひら)、二代めの基衡(もとひら)、三代めの秀衡(ひでひら)を指す。豪華→富貴なこと。非常にぜいたくなこと。擬→まねる。似せる。なぞらえる。帝京→〔ていけい(ていきゃう)天子のいる都=帝都。ここでは京の都、平安京を謂う。大きな地図で見る地図左端に平泉、中尊寺。右(東)に束稲山※朱楼碧殿接雲長:赤くいろ塗った高殿(たかどの)に緑色の御殿(ごてん)が雲に接するまでにさかんである。朱楼碧殿→赤くいろ塗った高殿(たかどの)に緑色の御殿(ごてん)。接雲→雲に接するほど高いさまを謂う。東山→束稲山(たばしねやま)を謂う。平泉の東に位置する山。岩手県西磐井郡の東端標高596メートル。来照当年金色堂→往時(と同様に、)金色堂を照らしてくる。来照→照らしかけてくる。当年→〔たうねん〕当時。あの頃。往時。金色堂→平泉駅の西方2キロメートル 中尊寺の一仏塔 光堂ともいう。中尊寺金色堂のこと。平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂で、奥州藤原三代を祀る。芭蕉の句に「五月雨の降り残してや金色堂」がある。


【通釈】藤原氏三代の繁栄は豪華をきわめ、帝都当時の京都に似せて、朱塗りの樓台、碧色の殿堂が見わたす限り高く聳えていた。 今はただ当時の豪華さは、一場の夢となり、昔と変わらぬものは東山に上る月だけで、夜ごと来って当時の遺物金色堂を照らしているのである、と栄枯盛衰の感慨をのべている。

白雲山に登る(太宰春台)続天196

【作者】太宰春台 1680~1747、江戸時代中期の儒学者・経世家。太宰言辰の子で、「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また
   紫芝園とも号した。信濃国飯田藩出身。父言辰に従い江戸へ出て、学問を修める。15歳で、但馬出石藩の松平氏に仕え、17歳の時儒学者、中野撝
     謙に師事し、朱子学を学ぶ。21歳で官を辞し、以後10年の間畿内を遊学する。その間に古学派に親しみ、1712年に下総生実藩の森川氏に再
     仕官。だがこれも辞し、以後生涯仕官することはなかった。正徳3年江戸に出て荻生徂徠の門に入る。のちに徂徠の説を批判し、『易経』を重ん
     じて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。また、征夷大将軍こそが「日本国王」であり、鎌倉・室町・江戸の三時代それぞれに別個の国
     家が存在したと説いた。その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。享年68歳。

白雲山

【語釈】白雲山→白雲山(妙義山)は、九州の「耶馬渓」、四国の「寒霞渓」と並び、日本三大奇勝の一つに選ば
     れ、「石門」や「大砲岩」「轟岩」など様々な奇岩奇峰が芸術作品のように林立している。また、妙義山は、
     白雲山、金洞山、金鶏山の三つからなる、上毛三山(群馬県内にある赤城山・榛名山・妙義山)の一つで
     もある。標高1187m。翠微→山の八合目付近。なお山の合目の基準は諸説あり定かでない。雲裡→雲の
     中。
【通釈】白雲山の上には白い雲が飛ぶように流れている。その八合目あたりには、何軒かの人家が点在してい
     る。白雲のたちこめる道を頂上まで登り、また白雲を全身に帯びて帰ってきた。
【鑑賞】同一文字を他句にまたがって用いるのは禁じられるが、この詩は「白雲」の文字を畳用した破格のもので、山中の景を写して、却ってす
     がすがしい感じがする。

俳句「春なれや」(芭蕉?)続天288

【作者】芭蕉(?) 
【通釈】春だなあ 水辺の村も山間の里にも、酒屋の旗が春風にはためいている。
【解説】「江南の春」(杜牧)を引用したものであるが、作者が不明

富士山(石川丈山)天213

石川丈山

【作者】石川 丈山(1583~1672)江戸初期の代表的な漢詩人。三河碧海郡(愛知県安城市)の出身。
     祖父正信は長篠の合戦で戦死した。丈山は若くして家康に仕え、豪勇をもって知られたが、大坂
     夏の陣に一人ひそかに軍営を抜け出し、敵の首二級を奪ったが、軍令を犯したとして退けられて
     浪人の身となった。30才で京都に閉居し、後藤原惺窩の門に学んだ。又一時安芸の広島藩に学
     者として仕えた。比叡山のふもとの一乗寺村に詩仙堂を作って住み、狩野探幽をして漢・魏から
     唐・宋に至るまでの詩家36人の像を写さしめ、これに詩を賛して長押(なげし)に掛け並べた。丈山
                         は書をよくし、特に隷書にすぐれていた。また築庭にも非凡な才能をもっていた。

詩仙の間庭園丈山邸跡
詩仙の間から南庭を眺める庭園からみた詩仙閣石川丈山翁邸址
丈山苑

安城市にある丈山苑のメインとなる詩泉閣の南にひろがる南庭は、京都・詩仙堂の庭をイメージした唐様庭園です。書院の前には白砂にツツジの大苅込み、詩仙の間の前には建物に沿って流れる細流、その向こうに中国の山々にみたてたツツジの苅込みがあり、五重の石塔が建てられています。いずれも丈山が建てた詩仙堂の様子を再現したものです
【語釈】仙客→仙人。鶴の異名。役小角(えんのおづぬ)が仙術を得て伊豆の大島から毎夜富士に来て遊んだという伝説がある。小角は大和の人で、
     わが国修験道の祖。一時伊豆に流された。神竜→神がかった竜。紈素→白いねり絹。白い扇面をいう。柄→扇の柄。開いた扇の三角形になっ
     ている骨の部分。白扇→おうぎ。
【通釈】仙人が来て舞い遊んだという、神聖な富士山の頂きは雲を抜いて空高くそびえている。また山頂に
     ある洞窟の中の淵には、神竜が棲みついていると伝えられる。霊峰富士を下界から望めば、山頂
     から山すそまで純白の雪におおわれ、扇に見たてるならば、白絹を張ったさかさまの扇面にあた
     り、その上に立ち上る噴煙は、扇の柄にあたる。まるで東海の空に白扇がさかさまにかかっている
     ようで、その雄大な眺めは、実に天下第一の山の名にふさわしい。
【鑑賞】これほど、素晴らしく富士山を歌い上げた漢詩は他にないのではなかろうか。富士は、絵に、歌に日本の象徴として、日本人の心のよりどころと
     なっているのは、昔も今も同じである。富士山を扇にたとえて、扇を逆さまに置いて眺め、かなめの部分を山頂に見たて、そこから煙がたなびい
     ている。まるで、絵を描いているようである。非常に奇抜な歌い方で、その面白い着想には目をみはるものがある。詩吟をはじめた頃はよくこの
     詩を吟じたものであるが、今でも初心者のあいだでは、詩吟大会などでよく吟じられている。心の中で、また瞼に富士山を思い描きながら鑑賞
     できる詩である。富士山を見事に歌い上げた名詩である。丈山の詩は、隠遁中の詩が多く、この詩もその一つで霊峰富士の神秘をのべ、東海
     の天に白扇を逆さまに懸ける雄大な表現で美しい山の容姿を賛嘆している。の詩は元和9年(1623)の春、41歳の頃の作品と想われる。
     丈山は承句の「栖老」のフリガナに注意している。栖老に「スミアラス」と訓点をつけている、「栖老」は本当は栖遅(せいち)という熟語を使いたかったが
     平仄に合わないので仄韻にして「栖老」として、わが国の古語「すみあらす」と読んだ。「すみあらす」とは「永く栖む」の意味で栖んで年をとるの
     意ではない。詩吟の読みと異なる語句は「巓」いただき→「嶺」みね、「栖老」()()ゆ→栖老(すみあら)す     

不尽を詠める歌(山部 赤人)人205

【作者】山部 赤人 生年不詳 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。山部足島の子。官位は外従六位下・上総少
     目。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人
     であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代
     の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』に
     は長歌13首・短歌37首が、勅撰和歌集には約50首が入首している。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌に定評がある。『古今和歌集』の仮名
     序において、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の
     「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする。平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(36人
     集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど
     含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が
     考えられている。なお、赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市に存在する。
【語釈】長歌]天地の分かれし時→古事記序文の「乾坤初分」と同じ内容。天地開闢・万物創成の時。富士の高嶺→富士山。万葉集では「不尽(不
     盡)」の表記が最も多く、「布士」「布時」「布仕」「不自」などの万葉仮名表記も見える。「富士」の表記が一般的になるのは中世以降と言われる。
     白雲もい行きはばかり→富士山の余りの広大さゆえ、雲がなかなか通り過ぎることが出来ない様をこう言った。時じくぞ→いつと時を定めず。
     [反歌]田子の浦→『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら) 郡蒲原町あたりに比定されている。富士
     市南部の田子の浦とは別。うち出てみれば→「うちいで」は広いところへ出る意。

東海道五十三次・由井

【通釈】 [長歌] 天と地が別れて出来た時からずっと、神々しく、高く壮大な、駿河の富士の高嶺、
     その高嶺を、天空はるか振り仰いでみれば、空を渡る太陽もその背後に隠れる程で、夜空
     に輝く月の光も見えない。雲もその前を通り過ぎることを憚る程で、季節にかかわらず雪が
     降り積もっている。いつの代までも語り継ぎ、 言い継いでゆこう。霊妙な富士の高嶺の
     ことは。(← 「東海道五十三次・由井」)



現在の由比


     [反歌] 田子の浦を通って、視界の開けた場所に出ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り
     積もっていた。
【解説】山部赤人が富士山を望見して詠んだ歌です。山部赤人は奈良時代の初期から中期に
     かけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)。『古今和歌集』には「人麻呂は赤人が
     上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、柿
     本人麻呂としばしば並び称されます。彼が活躍した時期は、人麻呂より二十年ほど後で、
     聖武天皇即位の前後から736年までの歌(長歌13首、短歌37首が『万葉集』に残っていま
     す。(← 現在の由比海岸)
     【長歌】は、天地開闢から歌い起こし、日・月・雲・雪等の語を配して時間的・空間的広がり
     を描写、なおの中にあって富士山は偉容であると賛美しています。
     【反歌】は、作者の位置を明らかにし、初めて富士山を眼前にした瞬間の感動を詠んだもの
     です。なお、この歌は、『古今集』では「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に
     雪は降りつつ」として収められています。「駿河」は今の静岡県中部地方。「布士」「不尽」は
     いずれも万葉仮名による表記。「田子の浦ゆ」の田子の浦は現在の興津の東方から由比を
     経て蒲原にいたる海岸。「ゆ」は経過する意を表す上代の格助詞

富嶽(乃木希典)天211

乃木希典

【作者】乃木希典 1849-1912 明治時代の陸軍軍人。長州藩(山口県)江戸屋敷に生まれる。文を吉田松陰の叔父玉木文之進、剣を栗栖(くりす)又助に学び、また詩歌にも優れ石林子(せきりんし)、石樵(せきしょう)と号した。歩兵大14連隊長心得として西南戦争に出征し、連隊旗を西郷軍に奪われる屈辱を嘗(な)め、日清戦争では第一旅団長となった。明治37年日露戦争では、第三軍司令官・陸軍大将に任命された。旅順攻囲では長男勝典・次男保典まで喪い、ようやく203高地を占領し旅順攻略に成功。明治天皇の大葬当日静子夫人と共に殉死した。亨年64歳。
【語釈】富嶽→富士山のこと 崚嶒→山の高く重なるさま 嶺の高くそびえる形容  千秋→千年 赫灼→あかあかと光りかがやくさま 朝暉→朝日のひかり 八洲→大八洲(おおやしま)の国 日本全土  區區→こまかいさま  地靈人傑→土地がらが最もすぐれておりそこに住む人もすぐれていること  神州→神の国の意で日本の美称

富嶽

【通釈】霊峰富士山は高く美しく千年もかわらぬ姿で聳え、光り輝やく朝日はこの峰より昇り、隈(くま)なく大八洲の国を照らすのである。あれこれ風景の美しいことばかりをいうのはやめよう、土地がらも、人物もすぐれているのが日本の神州たる所以(ゆえん)である。
【解説】富士山の崇高な姿がよく日本を象徴している。という作者の信念をのべた詩である。詩の構造は平起こり七言絶句の形であって、下平声十一尤(ゆう)韻の秋、洲、州の字が使われている。

俳句「降る雪や」(草田男)天278

中村草田男

【作者】中村草田男 明治34~昭和58。俳人。外交官の父の赴任先の中国・福建省で生まれ、3歳のときに帰国。
     松山で少年時代を過ごし、中学時代から文学・哲学書を耽読した。東京帝国大学文学部在学中、斎藤茂吉
     の歌集を読み詩歌にめざめる。昭和4年、高浜虚子の門弟となり句作に励み、同人誌『ホトトギス』に作品
     を発表。その作風は人間探究派と呼ばれ、昭和初期の歌壇に大きな影響を与えた。昭和21年には俳誌
     『万緑』を創刊、現代俳句の中心的存在となった。
【解説】この句は昭和6年、大学生だった草田男が大雪の日にかつて学んだ母校の青南小学校を訪問した際に生
     まれた。
     20年ぶりに母校を訪れた草田男はその変わらぬ佇まいに安堵するが、雪が降り出すとともに校庭に金ボタ
     ンの外套を着た子どもたちが現れるのを見て、着物に下駄だった自分の頃との歳月の隔たりを感じ、降り
     しきる雪の中に居ると、時と場所の意識が空白となり、現在がそのまま明治時代であるかのような錯覚と、
     明治時代が永久に消えてしまったとの思いが同時に強まった。

楓橋夜泊 (張継)天214

【作者】張継 生没年未祥(756頃)。中唐の詩人。湖北省囊陽県の人。玄宗の天宝13年(753)の進士。はじめは節度使の幕僚や塩鉄判官の職につい
     ていたが、代宗の大暦年間、中央に召され検校祠部郎中に至り、博覧多識で政治の本体をわきまえ評判が良かった。
【語釈】楓橋→江蘇省蘇州にある橋の名。もと封橋と書いたが、この詩が有名になり楓橋と改めれれたという。夜泊→夜、船中で泊まること。月落→月
     が西山に落ちること、陰暦七・八ごろの月は夜半に落ちる。烏啼→烏は夜半にも鳴くことがある。霜満天→霜の降りるような寒気が辺り一面に
     満ちわたる。中国では、地上に霜が降りる前に、大気中に霜の気が満ちると考えられていた。江楓→川辺に生えている真っ赤な楓。漁火→魚
     を捕るための漁り火。愁眠→旅愁のため熟睡できずうつらうつらとしていること。姑蘇城→春秋時代の呉の都、今の江蘇省蘇州市。寒山寺→蘇
     州の西郊外にある、楓橋に近いので楓橋寺ともいう。
【通釈】月は西山に没し烏は鳴き、霜の気は空一面に満ち満ちている。川辺の楓や漁船の漁り火が、旅の愁いのために熟睡できず、うつらうつらとして
     いる目に映ずる。もう夜が明けるかと思っていると、姑蘇城外の寒山寺から夜半を知らせる鐘の音が、私の乗っている船まで聞こえてくるので
     あった。(下の写真は現在の楓橋

楓橋

【解説】楓橋のあたりで、夜船中に泊まったとき
     の旅愁を詠んだ詩である。余りにも名詩
     であるが故に、さまざまな論争がある詩
     である。烏が鳴いた時刻・江楓はかえで
     か地名か・愁眠は愁眠山か・夜半に鐘は
     鳴らさない など。張継はこの詩一作で不
     朽の名を残した。後世この地へ来て「楓
     橋夜泊」の詩を作らない詩人はないほど
     になったのも、誠にむべなるかなである。







牡丹を賞す(劉禹錫)続天216

【詳細】会報「龍吟」第171号(H22.3.1発行)、教本「続天216頁」参照

望郷の詩(晁衡)続天215

阿倍仲麻呂

【作者】晁衡、朝衡。阿倍仲麻呂の唐名。奈良時代の遣唐留学生。698年(文武二年)~770年(寶龜元年)。彼は、717年(養老元年)、吉備真備らと共に唐に渡り、玄宗に仕えた。その学識、文才は博く、李白、王維との交流を物語る詩作『哭晁卿衡』がある。阿倍仲麻呂は、753年(天平勝寶五年)に帰国しようとしたが、海難のため果たせず、再び唐に戻り、鎮南都護に任じられて安南に赴いたが767年長安に戻り、72歳で客死した。玄宗皇帝のあと、第七代粛宗、第八代代宗が継承した唐朝も晩唐期に入り、仲麻呂は、なおも唐朝の治政に参画したことになる。入唐以来53年、人生のほぼ3/4を唐の官人として送ったことになる。







天の原

【語釈】望鄕の詩→月を見て、故郷を思い偲ぶ詩。望月望鄕詩。和歌では「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」になる。翹首望東天→首を上げて、東の空を望み待たば 翹首→首を上げて望み待つ。切望する。 望→遠くを見やる。ながめる。東天→東の空。神馳奈良邊→心は、(遠く)奈良の辺りに馳(は)せ飛んで行く。異郷の地にいる哀しさが伝わってくることばである。神馳→心で思いを馳せる。奈良→:阿倍仲麻呂の故地。邊→あたり。三笠山→奈良市東部にある現在の若草山。想又皓月圓→またしても白い月が円くなって、家族がそろっていることだろう。それを懐かしく想い致す。想→懐かしくおもう。又→またしても。重ねてまた。皓月→真っ白い月。圓→まるい。家族がそろうことを暗示する語である
【通釈】広々とした晴れわたる大空をはるか遠く仰ぎ見れば、美しい月が出ている。「ああ、あれは昔、故郷の日本で見た月、春日の三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ」今もそこに昇っているかもしれ
ない・・・・・

阿倍仲麻呂記念碑

【解説】この歌の碑はかの長安(西安)三個所建立されています。その内の一基の「阿部仲麻呂記念碑」は西安市街東方興慶宮公園に建立されています。この公園は、唐三大宮殿のひとつで、広さは50万平方米もあり、興慶湖と興慶宮跡地で、玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ沈香亭や花事相輝楼などが再現されています。百人一首の中で唯一異国の地で詠まれた歌が阿倍仲麻呂の歌ですが、記念碑文は李白が、仲麻呂の帰国途上に海難死去を聞き、友人として追悼したときの詩「晁卿衡を哭す」を捧げている。東側に仲麻呂の詩が西側に李白の詩が刻まれています。他の友人王維や包佶らも惜別詩を作ったと伝えれられています。
仲麻呂の文学者としての交際の広さを伺わせます。

姫路城(横山精真)H22.3発行「一吟詩(1)」

【作者】横山精真 岳精流日本吟院宗家 岳精会の概要を参照
【詳細】H22.3発行「一吟詩(1)」を参照


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