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昔遊を念う(杜牧)続天165 (未完成)

【作者】杜牧:晩唐の詩人、八○三年(貞元十九年)~八五二年(大中六年)。字は牧之。京兆萬年(現・陝西省西安)の人。進士になった後、中書舍人となる。杜甫を「老杜」と呼び,杜牧を「小杜」ともいう。李商隠と共に味わい深い詩風で、歴史や風雅を詠ったことで有名である。

水西寺

水西寺
【語釈】念昔游:昔の遊行をおもいおこす。 *杜牧の『念昔遊』は三首あり、其の三「李白題詩水西寺,古木回巖樓閣風。半醒半醉遊三日,紅白花開山雨中。」。十載飄然繩檢外:この十年はふらふらと彷徨って、規範の外だった。 ・十載:10年。この作品は四十代の初め頃の作か。 ・飄然:ふらふらとして居所が定まらないさま。 ・繩檢:規格。規律。規範。「繩」「檢」も、定規、さし、規準。縄尺、縄準。 ・繩檢外:規準外。桁外れ。縄準の外。縄外。決まりの外。樽前自獻自爲酬:酒を容れた物を前にして、自分で自分に酒を注ぎ、受けている。 ・樽前:酒器を前にして。酒を飲む時。 ・自獻:自分で自分に酒を注ぐ。手酌する。 ・自爲酬:自分で(酒を)受ける。秋山春雨閑吟處:秋の山に春の雨といったどの季節にも折々に詩を静かに口ずさみに行った処だ。 ・秋山春雨:秋の山に春の雨。どの季節も。折々に。 ・閑吟:詩歌などを静かに口ずさむ。 ・處:場所。倚江南寺寺樓:江南の方々の寺のたかどのにあまねく(登って手すりに)寄り添った(ものだった)。 ・倚:(たかどのの手すりに)あまねく寄り添って。 ・江南:中国の沿岸部の長江以南。 ・寺寺:方々の寺。 ・樓:たかどの。
【通釈】
【解説】

秋浦の歌(李白)天135

白髪三千丈

【作者】省略
【語釈】秋浦=地名。現・安徽省南部の長江南岸の貴池市の西側すぐ。秋浦河が北流して長江に注いでいる。 白髪=白い髪・しらが 丈=尺貫法の長さの単位 1丈は約3メートル 愁=予測される悪い事態に対する心配・気づかい。 縁=○○が原因で 以箇=このように 明鏡=曇りのない鏡 裏= 内・なか 何処=どこ 秋霜=秋の霜・霜が降ったように白く成った髪の毛の形容。
【通釈】なんと白髪が伸びた事か三千丈もありそうだ。色々心配事が多いから・・・こう長くなったのだろう。鏡に写るのは確かに自分だが まるで知らない人のようだ。いったい何処でこんなに白髪頭になったのだろう。
【解説】李白の晩年の作と言われています。おとぼけ詩とでも云うのでしょうか これはもう李白でなければ出来ないようなユーモアのある詩です。李白は安徽省南部当塗県の知事が遠縁に当たるため、晩年はここに身を寄せていた時亡くなったと言わ
れています。ですから亡くなるまでの2~3年間は安徽省南部の長江沿いの町をうろうろしながら詩を作っていたものと思われます。この秋浦歌が作られた秋浦の町も安徽省南部にあります。李白が作った詩に出てくる天門山や宣城の街も同じく安徽省南部にあります。

磧中の作(岑参)天160

 岑参

【作者】岑参(しん しん、715年 - 770年)は中国盛唐の詩人。岑嘉州とも称する。詩人・高適と並び称される。
河南省南陽の出身。744年の進士。長く節度使の幕僚として西域にあったが、安禄山の乱があった757年に粛宗がいた鳳翔にはせ参じて、杜甫らの推挙により右補闕となり、その10月には粛宗に従って長安に赴く。759年に虢州の刺史となり、762年に太子中充・殿中侍御史となり関西節度判官を兼ね、765年に嘉州の刺史となった。768年、官を辞して故郷に帰ろうとしたが途中で反乱軍に阻まれて成都にとどまり、その地で没する。享年56。辺塞詩をよくする。岑參の「參」字は〔さん〕〔しん〕〔じん〕とあるが、彼の名は〔じん〕になる





ゴビ砂漠

【語釈】碩中作:沙漠の中での作。碩:〔せき〕岩石砂漠。沙漠。川原のように小石が敷き詰められている原野で、ゴビ砂漠を指す。ゴビ沙漠はモンゴルのGobi(砂礫を含んだ草原)の意。そのため、現代語では「ゴビ砂漠」のことを“戈壁沙漠”とはいわないで、“戈壁灘”または“戈壁荒漠”という。蛇足になるが、「タクラマカン砂漠」の場合は“塔克拉瑪干沙漠”と、“沙漠”になる。王昌齢の『出塞行』「白草原頭望京師,黄河水流無盡時。秋天曠野行人絶,馬首東來知是誰。」 に雰囲気が似ている。
走馬:馬を向かわせる。馬を走らせる。西來:(話者が)西の方へやって来る。西の方より来る。欲:…ようとする。到天:天に届く。天に行く。
辭家見月兩回圓:家を出てから二回、月が満月になるのを見た=二ヶ月が経った。「回」字を「囘」ともする。辭家:家を出る。家郷を離れる。見月兩回圓:二回、月が満月になるのを見た。月はひと月に一回円くなるので、已に二ヶ月が経ったということ。兩回:二回。二度。圓:円くなる。動詞。今夜不知何處宿:今夜は、どこに泊まることになるのか分からない。不知+何…:【「不知」+「何處」】で、「…かしら」(どこに…しよう(/したの)かしら)の意で、推量の趣を持った弱い疑問表現。【「不知」+「何處」】【「不知」+「諸」】【「不知」+「乎」】【「不知」+「與」】 或いは【「不識」+「何處」】【「不識」+「諸」】【「不識」+「乎」】【「不識」+「與」】 「…かしら」(どこに…しよう(/したの)かしら)の意で、推量の趣を持った弱い疑問表現。不知:分からない。何處:どこ(で)。宿:泊まる。宿泊する。投宿する。動詞。平沙萬里絶人煙:平坦な沙漠が万里の彼方まで続いており、人の生息する気配はまったくない。「煙」字を「烟」ともする。平沙:平坦な沙漠。萬里:遙か彼方までの距離。絶:途絶える。隔絶する。人煙:人家の竈(かまど)に立つ煙。転じて、人の住んでいる気配。
【通釈】馬を走らせて、西へ西へと向かい、遂に、天に到るかと思うまで遠いところに来てしまった。(中国の地形は、西に行くほど高くなっており、天に至るというのは、非常に長い距離を西に向かって旅したことを示す。)
家を出てから、月が2回めぐり、満月になるのを2回見た(2ヶ月もたった)
今夜は、どこに宿をとったら良いのか分からない
万里の彼方まで、見渡す限り砂漠が続き、夕飯を炊く人家の煙も、絶えて見当たらないのだから。

出塞行(王昌齢)天132

王昌齢

【作者】王 昌齢(おう しょうれい) 698年−755年 中国・唐代中期の詩人。字は少伯。就任した官職の地名から、王江寧、王竜標とも称せられる。山西省太原に本籍を持ち、京兆・長安に生まれたらしい。開元15年(727年)に進士となり、祕書省の校書郎から開元22年(734年)に博学宏詞科に及第して汜水(河南省)の県尉となったが、奔放な生活ぶりで江寧の丞・竜標(湖南省)の県尉に落とされた。その後、天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。後に閭丘暁は、安禄山軍の侵攻に対し、唐側の張巡を救援しなかった罪で、唐の張鎬に杖殺された。この時、閭丘暁は「親がいるので、命を助けて欲しい」と言ったが、張鎬は、「王昌齢の親は誰に養ってもらえばいいのか?」と反論し、閭丘暁は押し黙ったと伝えられる。
【語釈】出塞行:楽府題 辺塞(へんさい)守備の兵士の辛苦を述べたもの 行は歌。 白草原:新彊(しんきょう)省じゃく羌(じゃくきょう)県地方の高原とするも 所在は不明。白草:(白っぽい色の草、一つにやまかがみ) が一面に生えている原野。 京 師:都 長安。秋 天:秋の空。馬首東來:馬の首(たてがみ)を東すなわち都へ向けて行く

黄河

【通釈】白草の生い茂る高原にたたずみ、都の方を望めば、都は遥かに遠く見えず、ただ黄河の水は滔々(とうとう)として西より東に流れ尽きることがない。 秋の空も淋しく、塞外の広野を往来する人影も絶えたが、折りしもただ一人馬首を東へ向け都の方へ向う旅人がある。 あれはいったい誰であろうか。(私も都へ帰りたいものである)



従軍行(王昌齢)天145

【作者】省略(上記)
【語釈】『出塞』ともされる。似たイメージの詩に唐・嚴武の『軍城早秋』がある。なお、この詩と正反対のことを詠うのが無名氏の『胡笳曲』になる。秦時明月漢時關:秦の時代の明月は、(変わることなく)漢の時代の関を照らして。秦時明月:秦の時代の明月。秦の時代も明月は(この関を照らし)。明月:澄み渡った月。月影の描写は暗に人を偲ぶことを示す。漢時關:漢の時代の関(せき)。萬里長征人未還:遥かに遠く遠征した人はまだ帰ってこない。萬里長征:遥かに遠く遠征すること。人未還:遠征した人はまだ帰ってこない。還:(出発したところへUターンをして)もどる。但使龍城飛將在:ただ(朔北の地)龍城を、「飛将軍」李廣に守備をさせれば。但使:ただ…でさえあれば。龍城:匈奴の長が会合して天を祭る処。転じて、匈奴の地。広く朔北の地を指す。飛將:前漢の李廣。しばしば匈奴を破り、匈奴より「飛将軍」と呼ばれた。在:いる。存在する。ここでは守備をさせる、籠城をさせる。不敎胡馬渡陰山:匈奴の軍馬に(中原の北の要害である)陰山を通り過ぎさせるようなことはしない。不教:…に…をさせない。胡馬:匈奴の軍馬。匈奴の軍隊を指す。西北方に住む異民族。渡:わたる。通り過ぎる。通り過ぎて(中原へ入る)。陰山:内蒙古自治区南部、呼和浩特市の北100キロメートルの大山脈。崑崙山の北の支脈。中原の北側の要害の地。
【通釈】秦の時代の明月、漢の時代の関所、はるか万里の道を遠征しているあの人はなかなか故郷に帰れない。
今もし、あの龍城の「飛将軍」李廣がいたならば、匈奴の軍馬に陰山(陰山山脈:中原の北の要害である)を超えさせたりしないものを。

従軍行(その一)(王昌齢)続天125

【作者】省略(上記)

烽火台

【語釈】烽火城-辺境の地にあって、のろしをあげる要塞。海風-青海(ココノール湖)から吹く風。金閨-女性の住む部屋を美しくいったもの。
【通釈】のろしをあげる要塞の西にある百尺のたかどの。秋のたそがれにひとり、海風に吹かれながら、座っている。さらに月光のもと、関山月の曲を吹く羌笛の音が聞こえてくると、妻から万里も離れている寂しさをこらえることができない。

従軍行(その二)(王昌齢)続天126

【作者】省略(上記)
【語釈】青海 … ココノール湖。雪山 … 天山。夏でも雪が積もっているので、「白山」「雪山」などと呼ばれた。玉 … 『全唐詩』には「一作雁」との注あり。また、『樂府詩集』では「雁」に作り、「一作玉」との注あり。金甲 … 金属製のよろい。
玉門関 … 関所の名。甘粛かんしゅく省敦煌とんこうの西にあった。楼蘭 … 今の新疆しんきょうウイグル自治区、ロプノール湖の西にあった小独立国。終 … 『全唐詩』では「一作竟」との注あり。『王昌齡詩集』(『和刻本漢詩集成 唐詩1』所収)では「竟」に作る。

青海湖

【通釈】青海湖そして長く尾を引く白い雲、その長雲で暗くなった雪の山々がある。はるか平原にただ一つポツンと立っている玉門関をこの塞から望む。黄砂塵の飛ぶこの砂漠で、数えきれないほどの戦いをしてきたことか、こんなに鉄でできた鎧や兜にさえ穴が開いてしまっている、だけど、あの宿敵楼蘭の国を破らぬ限りは故郷に帰らないぞ!。
【解説】中国の西から北の方はいわゆる砂漠地帯で、遊牧民族の国があった。この地域では、いつの時代も戦争をして絶えることなかった。万里の長城を築き、修理、拡張し、塞を築いたり、関所を設けた。そして多くの人にここの防御にあたらせた。遊牧民族対抗するには特に馬が必要で、隊の人の倍数馬を用意するので、従事する人、物、食料など国の財政に大きく影響を与えるものだった。人は、府兵制の徴兵で構成され、出征すると生きては帰れないといわれ、柳の枝折って送り出された。陰山山脈、砂漠。そこには中国本土にはない気候風土がある。砂漠の砂嵐、抜けるような青い空から灼熱の太陽、排尿した直後凍るほどの寒さ、そして何よりも黄色の砂漠に兵士たちの躯の白骨が点在する。むごたらしい情景は兵士を死の限界に追い詰める。突如響く「ドラ」の音、悲しげに聞こえてくる羌笛、馬の悲しげな嘶き、そして、月が昇ります。見渡す限りの荒野を明るく照らすのです。兵士にとって、大変なことですが、詩人はこうした日常的でない『非日常』を題材にしたのです。勇ましい戦場の詩より、『非日常』を、悲しみを、辛さを言葉巧みに美しい邊塞詩にしたのです。
 その代表的な詩は王昌齢「従軍行三首」其二です。戦場に行っていないからかけた傑作です。

塞上にて笛を吹くを聞く(高適)続天100

高適

【作者】高 適(こう てき こうせき)盛唐代の詩人。(702年頃~765年:廣德二年)。字は達夫。諡は忠。滄州渤海(現河北省)の出身。李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫侁とともに皇弟である永王李璘の軍を討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。辺塞の離情を多くよむ。




【語釈】
塞上聞吹笛:国境附近で笛を吹いているのを耳にした。雪淨胡天牧馬還:雪が清らかなえびすの地で、牧馬からもどってくると。この句は「雪 淨く 胡天 馬を牧して還れば」とも読めるが、この聯「雪淨胡天牧馬還,月明羌笛戍樓閒。」は対句であり、でき得る限り、読み下しもそのようにしたい。淨:きよらかである。胡天:(西方の)えびすの地の空。(西方の)えびすの地。牧馬:(漢民族側の官牧が飼養している馬。或いは、異民族が飼い養っている馬。還:(出かけていったものが)もどる。(出かけていったものが)かえる。月明羌笛戍樓閒:(晴天で満月に近い時なので)月は明らかで、西方異民族(チベツト系)の吹く笛の音が、(防衛のための)物見櫓の間(から聞こえてきた)。羌笛:青海地方にいた西方異民族(チベツト系)の吹く笛。王之煥の『涼州詞』に「黄河遠上白雲間,一片孤城萬仞山。羌笛何須怨楊柳,春風不度玉門關。」や、唐・王昌齡の『出塞行』「烽火城西百尺樓,黄昏獨上海風秋。更吹羌笛關山月,無那金閨萬里愁。」とある。戍樓:国境防備の歩哨所。防衛のための物見櫓。辺境防備用の望楼。閒:あいだをおく。物があってへだてる。間。借問梅花何處落:少しお訊ねするがこの「梅花」(の笛の音)はどこから散ってくるのだろうか。「借問梅花何處落」の読みは、伝統的に「借問す 梅花 何處(いづこ)(何(いづ)れの處(ところ))よりか落つる」と「…より」の語を加えて詠んで「梅花はどこから散ってくるのか」の意に解している。それは「梅花」が笛の曲名の『梅花落』に基づく「聞こえてくる笛の音」の意ともとるため。「梅花は、どこから散ってくるのか」は「『梅花落』曲のような笛の音は、どこから聞こえてくるのか」をかけている。借問:〔しゃもん、しゃくもん〕訊ねる。試みに問う。ちょっと質問する。かりに訊ねる。梅花:「春を告げる梅の花」という意味と笛曲の名を兼ねている。「落梅」は、笛の演奏用の『落梅花』という曲名のことで、漢代の「横笛曲」にある『梅花落』にかける。皎然の『塞下曲』「寒塞無因見落梅,胡人吹入笛聲來。勞勞亭上春應度,夜夜城南戰未迴。」や、李白の『與史郎中欽聽黄鶴樓上吹笛』に「一爲遷客去長沙,西望長安不見家。黄鶴樓中吹玉笛,江城五月落梅花。」、両宋・李清照の『永遇樂』「落日熔金,暮雲合璧,人在何處?染柳烟濃,吹梅笛怨,春意知幾許。」がある。何處:どこ。いずこ。落:散る。落ちる。風吹一夜滿關山:風が吹いてきて、一晩中、(ここ)関となる山に満ちてしまった。關山:関所となるべき要害の山。また、ふるさとの四方をとりまく山。故郷。ここは、前者の意。同時に、楽府題であり、笛の曲『關山月』にかける。唐・王昌齡の『從軍行』「琵琶起舞換新聲,總是關山離別情。繚亂邊愁聽不盡,高高秋月照長城。」や、宋・陸游は『關山月』で「和戎詔下十五年,將軍不戰空臨邊。朱門沈沈按歌舞,厩馬肥死弓斷弦。戍樓斗催落月,三十從軍今白髮。笛裏誰知壯士心,沙頭空照征人骨。中原干戈古亦聞,豈有逆胡傳子孫!遺民忍死望恢復,幾處今宵垂涙痕。」と使う。
【通釈】雪が清らかなえびすの地で、牧馬からもどってくる、月は明らかで、西方異民族(チベツト系)の吹く笛の音が、物見櫓の間から聞こえてきた。少しお訊ねしますこの「梅花」の笛の音はどこから聞こえてくるのだろうか、風が吹いてきて、一晩中、この関所となる山に満ちてしまった。
【解説】50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて汴州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。

子夜呉歌(李白)地137

【作者】省略
【語釈】子夜呉歌:『子夜歌』のこと。南朝の楽府民歌篇名。『清商曲辞・呉声歌曲』に属す。『呉声歌曲』を略して『呉歌』という。長江下流、建業(現・南京)の民歌の系統になる。晋宋斉で四十二首作られて、遺されている。『子夜歌』から生まれたのが『子夜四時歌』で、春夏秋冬から構成される。子夜の名称は晋代の女性の名に由来し、女性の悲しく切ない歌声のことをいう。詩の表現も女性の立場に立って詠うものである。「女性の歎きの歌」の意である。一片月の「片」という文字は、本来「片方」という意味で、もともとは、「木」という文字を、半分に切ったことに由来する。この詩は、漢代の『古絶句』「藁砧(=夫)今何在,山上復有山(=出)。何當大刀頭(環=還),破鏡(=月。半月)飛上天。」の「破鏡」ように「夫婦が離れていることの悲しみ」を詠うもので、『神異經』にある、離れて暮らさなければならなくなった夫婦が、鏡を割ってそれぞれの一片を持ち、愛情の証しとした故事に因る。鏡は月の象徴である。「破鏡」≒「半月」「一片月」。李白の『峨眉山月歌』にも「峨眉山月半輪秋,影入平羌江水流。夜發清溪向三峽,思君不見下渝州。」 とある。月は中華の文化を見る限り、月と家族との関聯は深く関わっていると謂えよう。このことを、更に 「玉」という文字で修飾している様な気がする。玉関は地名であっても、「別離」(割れている)から、必然的な地名なのではと思われる。 「一片」「月」「万戸」「玉関」という文字は、意味の上から、対句の様に「対文字」「対語」の様な気がする。これらのことは、中国人なら、深層心理に溜まっていると謂えよう。長安一片月:長安の夜空に浮かぶ半月(の下で)。長安を広く照らしわたる月光(の下で)。長安:唐代までの中国の首都。一片:(漢語に基づけば)広く散らばっているさま。一片月:(漢語に基づけば)半分だけになっている月。或いは、…を広く照らしわたる月光。月光が広くちらばっているさま。また欠けて見える三日月。ひとかけらの月。照明が発達していなかった時代では、月光の存在は大きな一を占めていたことだろう。「萬戸擣衣聲」から見ていくと、「広く照らしわたる月光」ととるのが妥当。萬戸擣衣聲:すべての家から、きぬたを打つ音が聞こえてくる。萬戸:多くの家。すべての家。擣衣:〔たうい〕着物を洗って石などの上に載せ、棒で打つ。きぬたを打つ。聲:音。秋風吹不盡:秋風が吹いて尽きる時がない。吹不盡:吹いて尽きる時がない。吹き続ける。「秋風吹不盡」の句中の「吹不盡」は、前後の詩意・文脈の流れからみて、「吹而不盡」の意であって、「吹得盡」の反義語である「吹不盡」ではない。-不盡:…にたえない。…尽きない。「吹き続ける」の意。總是玉關情:すべてが、玉門関に(遠征をしている夫を慕い偲ぶ)思い(にに満ちている)。總是:全部。いつも。例外なく。とにかく。いつも。玉關情:漢民族の前線基地である玉門関に出征している夫を思い偲ぶ心。玉關:玉門関のこと。甘肅省燉煌の西にある関所。漢土から西域に通ずる交通、戦略上の要所。王昌齡の『從軍行』「青海長雲暗雪山,孤城遙望玉門關。黄沙百戰穿金甲,不破樓蘭終不還。」や、王之渙の『出塞』「黄河遠上白雲間,一片孤城萬仞山。羌笛何須怨楊柳,春風不度玉門關。」と、使われている。何日平胡虜:いつになったら夷狄を退治して。何日:いつ。平:平定する。たいらげる。動詞。胡虜:胡人(西方異民族)の蔑称。良人罷遠征:あの方(夫)は遠征をやめて(帰ってくるかえって)くることだろうか)。良人:妻が夫を指していうことば。おっと。罷:〔ひ(は(い)〕やめる。中止する。まかる。退出する。

大雁塔の月

【通釈】長安の夜空にさえる一片の月  八百八町すべての家々からひびいてくるきぬたの音  秋風はいつまでもいつまでも吹きよせる  月、きぬた、秋風、すべて玉門関のあなたを思わせるものばかり  ああ、いつになれば、えびすを平らげて  あなたは遠いいくさから帰れるの
【解説】「子夜呉歌」は子夜(女の名)の作ったといわれる、呉(江蘇省一帯)の民歌である。晋の時代から歌われ、すこぶる哀調をおびていた。後の人びとが四季にあわせて子夜四時歌を作った。李白の詩も春夏秋冬と四首あり、この詩は秋のもの。李白は、江南の風土で育った歌を、北方の都に舞台を移し、玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てている。



春初感を書す(安積艮斎)天146(作成中) 

安積艮斎

【作者】安積 艮斎(あさか ごんさい、寛政3年3月2日(1791年4月4日) - 万延元年11月21日(1861年1月1日))は、幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが学んだ他や吉田松陰にも影響を与えたとされる。
陸奥(後の岩代)二本松藩の郡山(福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれる。名は重信、字は子順(しじゅん)、通称は祐助、別号は見山楼。17歳で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。文化11年(1814年)、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼」を開く。見山楼は旗本小栗家の屋敷内にあり、小栗忠順もここに学んだ。天保14年(1843年)に二本松藩校敬学館の教授、嘉永3年(1850年)には昌平黌教授となり、ペリー来航時のアメリカ国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わる。また、幕府へ外交意見として『盪蛮彙議』を提出した。
万延元年(1860年)11月21日没。没する7日前まで講義を行っていたと伝えられる。墓は東京都葛飾区の妙源寺にある。
【語釈】
【通釈】

塞下の曲(その二)(常建)続天102

常建

【作者】常建 開元十五年進士となる。進士となるも、致仕。放浪の後鄂渚に寓居す。この鄂渚とは、地名なのか、場所を表す言葉(湖北省の水郷地帯の意)なのか、目下不明。
 盛唐の詩人(生没年不詳)。字は休文。長安(陝西省西安市)の人といいますが、詳細は不明です。開元年間二十九年のうち、開元十五年(727)は中間の年に当たりますが、この年に王昌齢、常建という二人の詩人が進士に及第しています。ふたりは対称的な人生を送ることになります。常建も若いころは王昌齢と同じように辺塞詩を作り、宴会の席などで披露していました。詩題の「塞下」(さいか)は砦の下。起句の「北海の陰風」は北の砂漠から吹く陰鬱な風とも解せますが、承句に「龍堆」(白龍堆)とあり、ロブノール(新疆ウイグル自治区東部にある湖)の東に広がる砂漠を差します。したがって、ロブノールの湖上を渡って吹いて来る北風と解することができます。「明君」は漢の元帝時代に匈奴の単于に嫁がせられた王昭君のことですが、その祠と称する地は数か所にあり、唐代は漠然としていたと思われます。龍堆を西に望むあたりは漢の長城の東端でした。そこを捉えて西域守備の陰惨な結末を詠うのです。ただし、常建が西域に従軍したとは考えられませんので、多くの辺塞詩と同様、想像の詩です。
【語釈】塞下:砦の中。陰風:北風、冬の風。明君:ここでは王昭君。龍堆:天山南路の砂漠、匈奴の地名。髑髏:しゃれこうべ。
【通釈】北海からの陰気な北風がごうごうと地をどよもして吹いてくる。王昭君を祭る祠のあたりから、白龍堆のうねうねした沙丘が望まれる。ここかしこにころがっている髑髏は、みんな萬里の長城を築き、守り、戦ってきた代々の兵卒の朽ちたくされた骨だ。とれが日暮れがた、寒い烈風に吹き飛ばされて、やがて沙漠の上で灰になって飛び散ってゆく。


新涼書を読む(菊池三渓)天143

菊池三渓

【作者】菊池三渓 幕末・明治の漢学者。紀伊生。名は純、字は子顕、別号に晴雪楼主人、通称を純太郎。安積艮斎・林檉宇に儒学を学ぶ。紀州藩儒より幕府儒官となり、のち警視庁御用掛となる。晩年は京都に移り、詩・戯文を能くす。著に『続近事紀略』『国史略』等。明治24年(1891)歿、73才。
【語釈】新涼→秋の初めの涼気(郊墟(こうきょ))田舎の野山 半簾(はんれん)→半分おろしてあるすだれ 斜月→西に入りかかった月 絡緯(らくい)→クツワムシまたはコオロギの異称
【通釈】桐の葉が落ち始め野や丘には早くも初秋の気配が感じられる。半ば巻き上げた簾に斜めにさす月の光は水の色より清くクツワムシの声を聞きながら読書に耽る絶好の時節である。



秋思(許渾)天133   [#f3577510]

【作者】許渾 晩唐の詩人。791年(貞元七年)~854年(大中八年)?。字は仲晦。丹陽の人。現・江蘇省丹陽市。大和6年進士に及第、当塗(安徽省)・太平(安徽省)の令、監察御史などを歴任したが、病弱のため免職された。晩年は郷里の丁卯橋(ていぼうきょう)のほとりにあった別荘に隠棲した。丁卯体とよばれる格調の整った詩を作った。今日、『丁卯集』2巻が残っている。

秋思

【語釈】秋思→秋の寂しいもの思い。秋の悲しみ。季節の秋と人生の秋との双方の意を兼ねる。琪樹西風枕簟秋→玉のように美しい木に秋風(が訪れ)、夏物のまくらとたかむしろなどの寝具も(肌寒くなって、秋が訪れたのが分かるようになった)。琪樹→〔きじゅ〕玉のように美しい木。雪をかぶった木のさま。西風→秋風。枕簟→〔ちん(しん)てん〕まくらとたかむしろ。夏物の寝具。楚雲湘水憶同遊→楚の国の雲に湘江の流れに、昔の仲間を思い起こす。楚雲→楚の国の雲。楚→楚の国長江中流一帯で洞庭湖周辺になる。湘水→湘江。湘江の流れ。湖南省を北流して洞庭湖に注ぐ。憶→思い起こす。同遊→ともに遊んだ人たち。また、一緒に遊ぶ。ともに遊ぶ。高歌一曲掩明鏡→高らかに一曲歌おうとしたが、鏡に蓋をしてしまった(鏡に映った自分の年老いた姿を見たため)。高歌→高らかに声に出して歌う。掩→〔えん〕おおう。おおいかくす。やむ。鏡に映った自分の老けた姿を見ての行動になる。明鏡→澄み渡った鏡。昨日少年今白頭→あの頃の若者は、今は白髪頭の老人となってしまった。昨日→きのう。ここでは、過去の意になる。少年→若者。白頭→白髪頭の老人。
【通釈】庭の美しい木々に秋風が吹き、枕元の敷物に秋の気配が感ぜられる。楚の雲よ、湘水の流れよと昔の遊び友達を思い出し声高く一節歌を唄って、私は思わず鏡を覆った。昨日までの紅顔の美少年が今は白髪の老人になって映っていたのだから・・・・

塞翁(さいおう)が馬(未完成)

塞翁が馬

【故事成語】塞翁が馬:人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。塞翁失馬。人間万事塞翁が馬。(広辞苑)
(出典) 【淮南子・人間訓】より
近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居數月、其馬將胡駿馬而帰。人皆賀之。其父曰、此何遽不為禍乎。家富良馬。其子好騎、墜而折其髀。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居一年、胡人大入塞。丁壮者引弦而戦。近塞之人、死者十九。此獨以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。
(現代語訳)
辺境の砦(とりで)の近くに、占いの術に長(た)けた者がいた。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍(わざわい)をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子供は乗馬を好むようになったが、馬から落ちて股(もも)の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。

城東の荘に宴す(崔敏童)天148

【作者】崔敏童(さいびんどう) 生没不詳  初唐の詩人。河南博州、今の山東省東昌府の人。

玉山草堂

【語釈】宴城東莊→長安の東郊にある庵の玉山草堂で宴(うたげ)をした。城東莊→玉山草堂のことを指す。崔惠童に『宴城東莊』「一月人生笑幾回,相逢相値且銜杯。眼看春色如流水,今日殘花昨日開。」がある。この詩と同様のモチーフのものに杜甫の『絶句漫興』「二月已破三月來,漸老逢春能幾囘。莫思身外無窮事,且盡生前有限杯。」などがある。一年始有一年春→一年経ってやっとはじめて一年の春があり、(自然はこのように確実に繰り返される)。後世、元稹は『歳日』で「一日今年始,一年前事空。淒涼百年事,應與一年同。」と使う。一年→一年経つ。始→やっと。はじめて。百歳曾無百歳人→(しかしながら、人では)百年経ったからといって、百歳の人がいるわけではない。百歳→人の寿命の上限。陶淵明は「鼎鼎百年内」と詠う。・曾無→今までに無い。能向花前幾回醉→(春の)花の咲く下で、何回ほど(花見酒に)酔うことができるのだろうか。(それほど多くはあるまい)。能→よく。…できる。…が可能である。向→…に。…にて。…に於いて。花前→(春の)花の咲く所で。 幾回→何回。醉→酒に酔う。十千沽酒莫辭貧→(ならば、今を楽しく過ごすために)万銭で酒を買おうではないか。そのために貧しくなるのを恐れてはいけない。十千→万。千の10倍で一万。多額を謂う。唐・王維の『少年行』に「新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。」とある。李白に『將進酒』「君不見黄河之水天上來,奔流到海不復回。君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。人生得意須盡歡,莫使金尊空對月。天生我材必有用,千金散盡還復來。烹羊宰牛且爲樂,會須一飮三百杯。岑夫子,丹丘生。將進酒,杯莫停。與君歌一曲,請君爲我傾耳聽。鐘鼓饌玉不足貴,但願長醉不用醒。古來聖賢皆寂寞,惟有飮者留其名。陳王昔時宴平樂,斗酒十千恣歡謔。主人何爲言少錢,徑須沽取對君酌。五花馬,千金裘。呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。」 とある。沽→〔こ〕買う。前出・李白に『將進酒』 の紫字部分に同じ。酒→(今を楽しく過ごすための)酒。莫→…なかれ。禁止の辞。辭→辞退する。断る。恐れたり、避けたりしない。貧→(酒代に多額の金銭を使った挙げ句の)貧しさ。

酒を飲む

【通釈】一年が終われば新しい年の春がおとずれてくる。春はこのように永遠にめぐってくるが、こうして百年をかさねても、百歳まで生きる人はひとりもいない。このように、咲く花の前で、互いに酒を飲んで、いったい一生のうちに何度酔うことができるだろうか(そう度度はあるまい、今日一日は存分に飲もう)一万銭で酒を買ってこいよ。金がないとか、金がなくなるとか、さもしいことをいうものではない。

静夜思(李白)天157

【作者】李白(省略)
【スライド吟詠】  吟詠は少壮吟士・奥村精曄先生(岳精流総本部副幹事長・六郷岳精会々長)です。

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【語釈】靜夜思→「静かな夜の思い」の意。「夜思」ともする。この詩は日本では、牀前看月光,疑是地上霜。舉頭望山月,低頭思故鄕。(床前  月光を看る, 疑ふらくは 是れ  地上の霜かと。 頭を舉(あ)げて  山月を 望み, 頭を低(た)れて  故鄕を 思ふ。)とするのが一般。これは、底本の違いや、日本では『唐詩選』(明・李攀龍)を重んずる伝統があるのに対して、中国では『唐詩三百首』(清・塘退士)を重んずるという習慣の違いのため。前者は、盛唐に偏っているため、配慮が必要。蛇足だが、中国では小学生がこの詩句を諳誦している。もちろん「床前明月光」の方をである。床前明月光→ベッド先の明月の光(は)。床前→ベッド先。ベッドの前。ベッドの上。明月光→明月の光が射している。「看月光」ともする。その場合、「月光を看る」になる。なお、「月」の語で聯想することは、当時では、離れている人を偲ぶ、ということになる。「太いなる陰」なのである。現在のようにロマンチックな雰囲気ばかりではない。明月→(明るく)澄みわたった月。皎々とあかるく照る月。日本語で云うところの「名月」。蛇足だが、「明月」「名月」ともに〔めいげつ〕と言うが、詩詞では「名月」は使わないで、「明月」を使う。「名月」は陰暦八月十五夜の月だが、使われた実績がない。明→澄み切った。「明鏡」の「明」に同じ。疑是地上霜→(ベッド先を照らす明月の光は、)疑(いぶ)かることだが、地上に降りた霜か(とも見まがう)ものだ。 ・疑是→疑うには。疑うことには。疑はしいことには。本来は、動詞、形容詞。 ・是→名詞(句)の後に附く。それ故、「疑是地上霜」は、「『疑』ふことには『地上霜』である」になり、「疑」の部分の読みは名詞化して、伝統的に「『疑ふ』らく」としている。地上霜→地上に降りた霜。月光に照らされているところの表現描写である。舉頭望明月→頭をあげては、明月を望んで。舉頭→かうべをあげる。横になっていた頭をもたげて。あおむく。舉→高く持ち上げる。ここでは、横になっていた頭をもたげること。ただし、後出の「低頭」の対であるため、「仰向く」になる。望明月→明月を看る。月は家族を聯想する重要なよすが。低頭思故鄕→頭を下に向けては、故郷を懐かしく思いおこす。月光は、離れたところの家族を偲ばせるという伝統があり、李白も月光によって、触発されて故郷の親族を思い起こしているわけである。「明月を見た」⇒だから⇒「故郷の親族を思い起こした」という、伝統的な発想法に則っている。低頭→かうべをたれる。うつむく。俯く。思故鄕→望郷の念を懐く。
【通釈】静かな夜更け、寝床の前に月の光がさし込んでいる。あまりにも白いので、地上に降った霜かと疑った。光をたどって頭を上げると、山に美しい月が出ている。そして、自然にうなだれて、故郷のことが思い出されるのである。
【鑑賞】後半は対句となっているが、「挙頭」「低頭」のところは、近体詩の形からはずれている。すなわちこの詩は、あえて古風な形にすることによって、望郷の念をしみじみ歌っている。この、一見短く簡素で取り立てて言うほどもないように見える詩がこの様に多くの共感を得ているのは何故であろうか。今、六十有六年を過ごした故郷を離れ、この地で、この詩を読むとき、私も望郷の念にかられる。
【解説】月の光が一面にさしている静かな秋の夜に、山にかかる月を眺め、故郷を思った詩である。なおこの詩は李白31歳の時の詩だと言われている。この詩(静夜思)にはなにか永遠な美しさがあります。ごらんのとおり、述べてある事柄はいたって簡単でありまして、「自分の寝台の前に月が照っている、その光が白く冴えて霜のように見える。自分は頭を挙げて山上の月影を望み、頭を垂れて遠い故郷のことを思う。」と、いうだけのことにすぎませんけれども、そうしてこれは、今から千年以上も前の「静夜の思い」でありますけれども、今日のわれわれが読みましても、牀前の月光、霜のような地上の白さ、山の上の高い空にかかった月、その月影の下にうなだれて思いを故郷にはせている人のありさまが、不思議にありありと浮かぶのであります。また、現に自分がその青白い月光を浴びつつ郷愁にふけっているかのごとき感慨をもよおし、李白と同じ境涯にひき入れられます。ただいまの李白の詩についてもう一つ注意すべきことは、この詩の中には月明に対して遠い故郷をあこがれる気持、一種の哀愁がこもっておりますが、作者は「故郷ヲ思フ」といっているだけで、「寂しい」とも「恋しい」とも「うら悲しい」とも、そういう文字を一つも使っておりません。文字の表になんともいっていないところに沈痛な味わいがありまして、多少なりとも哀傷的なことばが使ってありましたら、必ずあさはかなものになります。

山中問答(李白)天98

【作者】李白:盛唐の詩人。字は太白。自ら青蓮居士と号する。世に詩仙と称される。701年(嗣聖十八年)~762年(寶應元年)。西域・隴西の成紀の人で、四川で育つ。若くして諸国を漫遊し、後に出仕して、翰林供奉となるが高力士の讒言に遭い、退けられる安史の乱では苦労をし、後、永王が謀亂を起こしたのに際し、幕僚となっていたため、罪を得て夜郎にながされたが、やがて赦された。

山中問答

【語釈】山中問答→山に入って脱俗的な生活をするということに対する当時の文化人の姿勢が窺われる。陶淵明の生活に対する憧れのようなものがあるが、それがよく分かるのは、転句結句の「桃花流水杳然去」である。『山中答俗人』ともする。『聯珠詩格』では『山中答人』とする。問余何意棲碧山→わたしに「どういう訳で、緑の色濃い山奥に住んでいるのか」とのお尋ねだが。 わたしに「どうしてそのような脱俗的な生活をしているのか」との問いかけだが。わたしに「どういう訳で、(モモの花の美しい)白兆山にに住んでいるのか」とのお尋ねだが。問余→わらしに問う。余→われ、予。何意→どういう訳で。なぜ。 ・棲→すむ。本来は、鳥のすみか。いこうところ。碧山→緑の色濃い山奥。実在の山としては、白兆山。湖北省安陸県にあり、李白は嘗てここで過ごしたことがある。棲碧山→隠遁生活をすること。具体的には、湖北の安陸にある白兆山に住む。後者の意では、おもしろみが著しく殺がれ、「隠遁生活をする」の意から変わってお国自慢の詩となるが、意外と後者の意になるかも知れない、残念ながら。 ただ、歴代の人々がこの詩を愛したのは前者の意でである。笑而不答心自閑→(その質問には)笑って(声に出して)返事をしないが、心は自然とのどかで(恰も武陵桃源にいるかのようで)ある。 ・笑而:笑って…(する)。「而」は主として動詞句を繋ぎ、動詞に係っていく。不答→返事をしない。返事の答えはしないものの、詩の後半が答の思いとなっている。・自閑→自然と落ち着いている。自然とさわやかで静かである。桃花流水杳然去→モモの花びらがはるか彼方にずうっと流れ去り。桃花→モモの花。ここでは、モモの花びら。流水→流れゆく川の流れ。杳然→はるかなさま。杳→くらい。深い。去→さる。別有天地非人間→別の世界があって、それはこの俗世間とは異なるところである。別有天地→別な所に世界がある。非人間→俗世間とは違う。この浮き世とは違う世の中。人間→俗世間。この世の中。
【通釈】誰かが私に、君はどういう分けでこんな緑深い山に棲んでいるのかと尋ねた。そんな質問に私は笑っているだけでだ。そんな俗人の問いかけにお構いなくのどかな気持ちです。桃の花が水に浮かんではるかに奥深い所に流れてゆく。茲は、人間世界とは違った別天地があるのだ!

清明(杜牧)

杜牧

【作者】杜牧 803~852 晩唐の詩人 陝西省西安の出で名門の子弟。25才で進士に及第し、続いて上級試験の天子の制挙にも合格し高級官僚のコースを踏み出す。杜牧の生涯は、30代前半までのエリート官僚として江南で思う存分遊んだ時期と、後半の弟の面倒を見なければならなくなり、栄達への挫折を味わった時期とに分けることができる。盛唐の李白と杜甫を李・杜というのに対し、晩唐の李・杜といわれた。杜牧の詩は軽妙で洒脱なところが持ち味で、今ふうに言えばセンスのよい詩である。七言絶句に最もよくその才が発揮された。50歳で没した。
【語釈】清明→清明節。陰暦二十四節気の一つ、いまの太陽暦で四月五日頃にあたる。紛紛→雪や雨など細かいものが盛んに降るさま。行人→路を行く人、ここでは作者。欲断魂→心が滅入る。借問→ちょっと尋ねる、詩にはよく使われる語句。酒家→酒屋。牧童→牛飼いの少年。杏花村→あんずの花の咲く村。


【通釈】清明のよき時節だというのに、雨がしとしとと降っている。道を行く私の心もすっかり滅入ってしまっている。その愁いを酒でまぎらわせようと、通り合わせた牛飼いの少年に酒屋はどこにあるかと尋ねると、何も云わずに、はるか彼方のあんずの花咲く村を指さしてくれた。
【解説】清明の頃、野歩きをしていて雨にあい、春愁を詠ったもの。

清明

土岐善麿の訳詩「やよい」がある
    春はやよいの しとど雨
    旅のおもいの やるせなさ
    酒屋はいずこ 道とえば
    あんずの村を さすわらべ

←左の水墨画は榊原郁夫氏(三河岳精会・知立中町教場)によるものです。





酒に対す(白居易)天94

白居易

【作者】白居易 772~846、中唐の詩人。日本では「白楽天」の名でもよく知られいる。陝西省渭南県の人。聡明で生後5、6か月で、「之」「無」の字を覚えていたという(?)。5、6才で作詩を学び、15、6才で都に出て、大いに認められた。 しかし、44才の時讒言され、江州・司馬に左遷された。820年都に戻ったが政治向のことで再び上疏したが、聞き入れられず、自分から地方に出ることを願い出て杭州の刺史に任ぜられた。そこでは、西湖に「白堤」を増築して眺望をよくする一方州民の飲料水や灌漑用水の確保に努力した。55才のとき、病気のため洛陽へ帰り、閑職についたが842年退隠した。晩年は仏教に帰依し、香山寺の僧如満らと交わったが、75才で没した。白居易は、詩を作るたびに文盲の老婆にその詩を聞かせ、それが理解できるまで作り直したというエピソードがあるほどで、その詩は平易通俗、温厚和平と称された。そのため、多くの人に愛誦された。白居易は儒教的文学観に立って、政治の参考にするような諷論詩を重んじたが、世人は「長恨歌、琵琶行」など感傷的な詩をもてはやした。 白居易の詩文はわが国にも伝わり、平安以後の日本文学に最も大きな影響を与えた。「白氏文集」は平安貴族の教養でありベストセーだったようだ。しかし、白居易の詩は「唐詩選」には一句も載っていない。
【語釈】蝸牛角上→蝸牛はかたつむり。かたつむりの角の上。石火光中→火打石のカチッと光る火の中。一瞬のうち。随富随貧→富む者は富むなりに、貧しい者は貧なりに。且→まあまあ~、ちょっとの間。開口笑→おもいっきり口をあけて笑う。「人は上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。その中に口を開きて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ」(荘子)による。癡人→痴人とも書く。ばか者、おろかな人。      
【通釈】世の中の人はかたつむりの角の上の小さく狭い所で、いったい何を争うのか。火打ち石の火がぱっと火花を散らす、その一瞬の間に人はこの世に生きているようなものだ。だから、金持ちは金持ちらしく、貧乏人は貧乏人なりに、分に応じて、ま~しばらく楽しもう。大きな口を開いて笑わないやつはバカ者だ。
【鑑賞】白居易58才ころの作。この詩は連作五首中、その二番目になる。人間の一生は短いのだから、金持ちも貧乏人も愉快に過ごそうよ。なんでそんな小っさな事で、こんな狭い所で角を出して争うんだ。耳の痛い人もいるのではないでしょうか。一種の人生哲学をうたったものであるが、それにしても題が「酒に対す」とは面白い。白楽天らしい。第一句は韻は踏み落しとなっている。起句、承句は対句になっているが、「蝸牛角上」とか「石火光中」など空間的・時間的に人生のちっぽけさを、うまく
比喩をつかったところが面白い。この前半二句は、『和漢朗詠集』にものっていたように思う。後半では、あくせく一生を過ごすのを嘲笑している。白楽天が自分の生き方を詠っているようだ。

子規(良寛)続天109

良寛

【作者】良寛良寛 宝暦八~天保二(一七五八~一八三一)号:大愚俗名は山本栄蔵(のち文孝に改名)。越後国三島郡出雲崎の旧家橘屋の長男として生まれる。父は名主兼神官を勤め、俳人でもあった。母は佐渡出身で、同族山本庄兵衛の娘。幼少時より読書に耽り家の蔵書を渉猟したという。儒者大森子陽の狭川塾に入り、漢学を学ぶ。十八歳の時、隣町尼瀬の曹洞宗光照寺に入り、禅を学ぶ。二十二歳、光照寺に立ち寄った備中国玉島曹洞宗円通寺の大忍国仙和尚に随って玉島に赴く。剃髪して良寛大愚と名のった。以後円通寺で修行し、三十三歳の時、国仙和尚より印可の偈を受ける。良寛は諸国行脚の旅に出る。越後国に帰郷し、出雲崎を中心に乞食生活を続けた。四十七歳の頃、国上山にある真言宗国上寺の五合庵に定住。近隣の村里で托鉢を続けながら、時に村童たちと遊び、或いは詩歌の制作に耽り、またこの頃万葉集に親近したという。五合庵より国上山麓の乙子神社境内の草庵に移る。自活に支障を来たし、三島郡島崎村の能登屋木村元右衛門方に身を寄せ、屋敷内の庵室に移る。貞心尼(当時二十九歳)の訪問を受け、以後愛弟子とする。天保元年秋、疫痢に罹り、翌年一月六日、円寂。七十四歳。→短歌「いざここに」(良寛)続天269を参照
【語釈】子規→ホトトギス。煙雨→こまかい雨。濛濛→煙などがたちこめる様子。千峰万壑→たくさんの峰と谷。
【通釈】細かい雨が煙のように降って、春はもうすぐ過ぎようとしている。どの峰もどの谷も春雨にけむり、はっきりと眺めることも出来ない。夕方、ホトトギスがしきりに鳴いていたが、夜が更けてからも更に竹藪に移って鳴いている。





春夜洛城に笛を聞く (李白)天118

李白

【作者】李白 701 ~ 762年、中国盛唐の詩人。字は太白(たいはく)。号は青蓮居士。唐代のみならず中国詩歌史上において同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際した。25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽・太原・山東などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている。32歳の時、安陸県(湖北省)の名家で、高宗の宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。長安に滞在して仕官を求め、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさ牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動をつづけたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。長安を去った李白は、洛陽もしくは梁・宋(現河南省開封市・商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。安史の乱の勃発後、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、高適らの追討を受けて敗死した。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上、白 帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。
【語釈】洛城→洛陽の町。現在の河南省洛陽市。唐の時代は西都長安に対し東都とも云った。中国では、町の周囲を城壁で囲んであり、「洛陽城」といえば洛陽の町を意味する。玉笛→玉は美称の接頭語。美しい笛、立派な笛。暗→ひそかに。どこからともなく。飛声→耳に聞こえてくる。笛の音が風に吹かれてくるので飛といった。散入春風→笛の音が春風に乗って響きわたること。折柳→「折楊柳」という曲名。別離のとあきに奏でる曲。中国では旅立つ人を見送るときに楊柳の枝を折ってはなむけとする習慣があった。何人→「誰」の意で反語を表す。故園情→故郷を想う心。望郷の念。

洛陽

【通釈】どこの家で吹くのであろうか、どこからともなく笛の音が聞こえてくる。その笛の音は春風に乗って洛陽の町一帯に響きわたる。この夜、吹く曲の中で別離のときに奏でるあの折楊柳の曲を聞いたが、この曲を聞いて、いったい誰が故郷を想う情を起こさない者があるだろうか。
【鑑賞】望郷が主題の詩であるが、全体に甘美なムードが漂う。舞台は古都洛陽、時は春の夜、美しい笛の音が、春風に乗って洛陽の町に満ち満ちている。やるせない哀愁が、しっとりとした洛陽の雰囲気に溶け入る。寒々とした月光に照らされながら聞く笛の音とは、また違う趣の望郷詩である。上品な哀愁の詩、これも李白の詩の世界である。李白35歳の作。

短歌「しらじらと」(石川啄木)続天276

【作者】石川啄木 明治19(1886)~明治45(1912)岩手県日戸村生まれ。渋民村で代用教員生活の後、北海道に渡り地方新聞記者となる。作家を目
     指して東京に出るが、窮乏生活のうちに結核で病死した。盛岡中学時代に作歌を始め、明星派の詩人として出発するが、流離と貧困の生活の
     中から独自な領域を開き、生活派短歌の先駆者となる。大逆事件(社会主義者・幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件)に
     関心をかたむけ、社会主義への傾斜を深めた。歌集に「一握の砂」遺歌集「悲しき玩具」がある。
【大意】氷が白く輝き、千鳥が鳴いている、冬のような、釧路の海岸の月夜の光景が思い出される
【解説】初出 東京朝日新聞明治43年5月9日「手帳の中より」の五首の一つ
     釧路新聞記者として、明治41年1月から4月まで釧路に住んだ啄木の回想である。渡り鳥の千鳥は、3月
     中旬から4月初めに釧路に現れ、3月17日の釧路新聞に「生まれて初めて千鳥を聞いた」と書き、3月20日
     と4月4日の日記にも、千鳥に触れている。情景描写だけでなく、暦の上では春でも、冬としか書きようのな
     い、最果ての釧路の気候風土を、冬の月かな と歌うところが秀逸である。なお、この句は、啄木が千鳥
     の声を聞いた釧路の知人海岸に、昭和9年、歌碑が建立されている。





初夏即事 (王安石)続天141

王安石

【作者】王安石(1021~1086)北宋の詩人。文章家、政治家。江西省清江に生まれた。荊国公または王文公とも
     呼ばれる。若い時から好んで本を読み記憶力は抜群で一度目を通したものは生涯忘れなかったという。
     21歳で進士を上位で合格し、地方官を歴任して翰林学士となった。韓愈・柳宗元・欧陽脩・蘇洵・蘇軾・
     蘇轍・曽鞏と共に唐宋八大家として文名が高かった。しかし日本では、文人としてより政治家として有名で
     ある。詩では杜甫の影響を受け、その詩風は雅麗と評される。特に絶句では北宋第一とされ、叙事詩(古
     詩)にも傑作が多い。
【語釈】即事→眼前の景や事を見たままに詩にすること。石梁→石橋。茅屋→かやぶき屋根の家。湾碕→曲がり
     くねった川岸。濺濺→水がさらさらと流れるさま。陂→つつみ。麦気→麦の香り。幽草→人目につかず、ひ
     っそりと茂る草。
【通釈】石の橋、茅葺きの家、そして曲がりくねった岸辺がある。流れる水は、さらさらと両側のつつみの中わた
     って行く。初夏のよく晴れた日、暖かい風が吹きわたると、麦の香りがたちこめて、緑の木陰にひっそり草
     も茂り、花の咲き誇る季節より風情がある。
【解説】江寧(南京)郊外の自分の隠居所の庭を見て、初夏の情景をスケッチしたもの。55歳で復職した宰相を辞し江寧に戻り、郊外の鍾山に半山亭
     という隠居所を作って、自適の晩年を送ったころの詩。王安石は鋭敏な言語感覚で、磨きぬかれた詩語を用いた詩人として有名である。
     “柔らかさ” “巧みさ”が、王安石の詩の持ち味である。
【参考】土岐前麿の翻訳詩「はつなつに」がある。
        石ばし わらや みさきにありて  水さらさらと 岸べをひたす
         そよ風晴れて 麦の香に立ち  わか葉 小草ぞ 花にまされる

清平調詞(その二) (李白 )続天159

【作者】李白 (701~762) 杜甫と共に盛唐時代の二大詩人。幼少の頃より 詩をつくり、剣術を学ぶなど天才的才能の持主酒を愛しその詩は自由奔放、
     才気煥発、変幻自在で「詩仙」の呼称にふさわしい。大酔して水中に映った月を捉えようとして溺れ死んだという伝説がある。
【語釈】清平調→楽府(漢詩の形式で古体詩の一種)には清調・平調・琵調の三種があり、清平調とは清調と平調を合わせたもの。玄宗皇帝は音楽師
     に命じて、李白の作る詩に合わせて音楽を奏でさせ、自分は笛を吹き、李亀年に歌わせた。雲雨巫山→「文選」にある故事。楚の襄王が高唐
     に遊び、夢の中で巫山の神女と契ったが、神女が去るとき、自分は巫山の南の高い丘に住み、朝には雲となり夕方には雨となる、と告げた故
     事。日本では「巫山の夢」として知られる。枉→無駄に。いたずらに。承句は玄宗皇帝と楊貴妃に比べれば、楚王と神女の恋など問題にならぬ、
     の意味。借問→ちょっとお尋ねしますが。漢宮→漢王朝の宮殿。飛燕→前漢成帝の皇后、趙飛燕。
【通釈】一枝の艶やかな牡丹に露がやどり香を凝結させた。美しい楊貴妃を
     侍らせる我が君主に比べれば、むかし巫山の雲雨を眺めて神女に
     恋した楚の襄王の物語も、いたずらに断腸の思いがする。ちょっとお
     聞きしますが、漢宮の美人の中で誰が、この方の美しさに似ていると
     いうのでしょうか。それはあの可愛らしい趙飛燕が化粧をしたばかり
     の時の美しさでしょうか。
【解説】花王の牡丹の美しさと楊貴妃の美しさを詠んだ作品、三首連作の第
     二首目。この詩のポイントは起句にある。牡丹の花を詠じているの
     に、いつのまにか楊貴妃の姿になってしまう。承句は迫力十分であ
     る。後半二句は楊貴妃と趙飛燕との対比で表現している。この対比が
     後に筆禍を引き起こした。もとは長安の女奴隷であった素性のいやし
     い飛燕と比較するとは何事ぞ、との告げ口により、李白は都を追放さ
     れることになった。

山行 (杜牧)天95

【作者】杜牧 803 ~852 晩唐の詩人 陝西省西安の出で名門の子弟。 25才で進士に及第し、続いて上級試験の天子の制挙にも合格し高級官僚の
     コースを踏み出す。杜牧の生涯は、30代前半までのエリート官僚として江南で思う存分遊んだ時期と、後半の弟の面倒を見なければならなくな
     り、栄達への挫折を味わった時期とに分けることができる。盛唐の李白と杜甫を李・杜というのに対し晩唐の李・杜といわれた。杜牧の詩は軽
     妙で洒脱なところが持ち味で、今ふうに言えばセンスのよい詩である。七言絶句に最もよくその才が発揮された。50歳で没した。
【語釈】山行→山歩き。寒山→秋から冬にかけての寂しい山。寒々とした山。石径→石の多い小道。径は小道。白雲→漢詩では、「青雲」は世俗的栄
     達の象徴であるが、「白雲」は自由人の隠遁的雰囲気や仙境を連想させるものとして常用される。車→「山かご」とする説がある。坐→何という
     ことなしに。楓林→かえでの林。晩→夕方。霜葉→霜で紅葉した木の葉。二月花→旧暦二月で今の三月半ば。花の盛りの頃で普通に桃の花を
     さす。

紅葉の山

【通釈】遠くものさびしい山に登って行くと、小石の多い小道が斜めに頂上に向って続いている。白雲の湧き出る
     ような高いところにも人家があって驚かされる。しばし乗り物を止めて、漫然と夕日に映えるかえでの林を
     眺めている。霜にうたれて紅葉した葉は、二月に咲く桃の花よりも真っ赤で、燃えるように美しい。
【鑑賞】秋のものさびしい一日、山を歩いて美しい紅葉を賞した詩。俗世間を離れた高雅な境地を詠ったもので、
     そのポイントは「白雲」である。この詩の最大の妙味は、霜にうたれて色づいた楓の葉を、二月の花よりも
     赤い、といった奇想天外さにある。また、蕭条とした秋の山の、白雲と紅葉の色彩対比のあざやかさも、
                             まことに心にくいばかりである。

春望 (杜 甫)地141

杜 甫

【作者】杜 甫(712 ~ 770)盛唐の詩人。李白とともに唐代最高の詩人。初唐の詩人・杜審言の孫で、洛陽に近い河南省鞏県の生れ、湖北省襄陽県の人。若い頃は諸国を遊歴し、李白・高適と交わり詩を賦したりしている。長安に出て科挙を受験したが及第せず困窮の生活を送った。安禄山の反乱軍に捕えられ長安に軟禁されて、「春望」を詠じたのが757年46歳の時である。翌々年(759)蜀道の険を越えて成都に到り浣花渓のほとりに草堂(下の写真、三河岳精会第1次中国吟行会で撮影)を建てて住んだ。この時期が、杜甫の一生のうちで比較的平穏であり、竹木を植え酒を飲み詩を詠い、農民たちと往来した。蜀の地が乱れたため、また貧と病に苦しみながら各地を流浪し不遇のうちに生涯を終えた。


【語釈】国→国都・長安。烽火→のろし。連三月→三ヶ月に亘って。家書→家族(妻)からの便り。抵→相当する。渾→全て。簪→冠を髪にとめるピン。

杜甫草堂

杜 甫
【通釈】国都長安は破壊されてしまったが、山河のみは元のままである。城壁の辺には、春とともに草木が芽を出し、青々と生茂っている。どうにもならない時勢に感傷がこみあげてきて、花を見るにつけても涙を流し、一家離散の恨めしさに、鳥のさえずりを聞くにつけても帰りをうながされているようで落ち着かない。敵の来襲を報せるのろしは、三ヶ月も続いている。たまに届く妻からの便りは万金の値打ちがある程ありがたい。めっきり白髪のふえた頭を掻いてみると、一段と髪が短くなって、とてもかんざしがもたなかろうと思うほど、薄くなってしまった。
【解説】一首を貫く沈痛な気分は、絶望的な響きをもって読者の胸に迫ってくる。人間は有情、自然は無情、そこに詩人の悲しみがある。芭蕉は早くから杜甫に傾倒し、「奥の細道」に 国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打ち敷きて時のうつるまで涙を落としはべりぬ。”夏草や つわものどもが 夢の跡”と詠んでいる。

春暁(孟浩然)天124

【作者】孟浩然 689~740 盛唐の詩人。湖北省襄州襄陽に生まれた。土地の豪族で、何回か科挙に応じたが及第せず、諸国を放浪した末、故郷の鹿門山に隠棲し詩作に没頭した。四〇歳のとき長安に出て、時の宰相張九齢や王維と親交を結んだ。田園詩人として王維・韋応物・柳宗元と合わせて「王韋孟柳」と称された。五言詩に長じ特に律詩をよくした。52歳のとき背中にできものができ死んだ。
【語釈】春眠→春の心地よい眠り。不覚暁→夜が明けたことに気がつかない。処処→あちらにもこちらにも。いたるところ。現代用語の所々(ところどころ)ではない。聞→きこえる。「聴」が意識してきくのと区別する。啼鳥→鳥の啼く声。夜来→昨夜。「来」は助字で意味はない。知多少→どれほどか解らない。

春暁

【通釈】春の心地よい眠りに、夜が明けたのも気がつかない。うとうととしていると、あちらでもこちらでも、小鳥のさえずりが聞こえてくる。昨夜は風雨の音がしていたが、庭の花はどれほど散ったことであろうか。
【鑑賞】起句「春眠暁を覚えず」がすばらしい、実にうまい表現で、いかにものびやかな気分が的確に捉えられ、承句は、その春の気分を敷衍する。そして「夕べの吹降り」と場面が転換し、前半の明るい調子が、夜の風雨の暗さに変わり、結句に導かれる。全体に、やるせない春のムードをかきたてる。絶句の「起承転結」法の模範と言える。一読、風雅な品の良さが漂い、作者の風格が滲み出た傑作である。



春夜(蘇軾)天117

蘇軾

【作者】蘇軾 1036~1101 北宋最盛期の詩人・文章家・政治家。北宋の文章家蘇洵の長子で、弟が蘇轍。洵・轍と合わせて三蘇という。号は東坡。父は諸方に遊学がちで、蘇軾は10歳のころ母から学問を受けた。20歳のとき父に従って弟とともに都へ出、翌年兄弟そろって進士に及第。王安石の新法に反対し何度も辺地に流されている。蘇軾は儒・仏・道のいずれにも通暁し、詩文はいうまでもなく、書画もよくした。その詩は平易流暢・変化自在で、特に七言に長じている。
【語釈】春宵→春夜に同じ。一刻→一刻の長さには諸説(15分~30分)があるが、いずれにせよ短い時間を指す。直→値と同じ。千金→大変高価であること。清香→清らかな香り。陰→月が朧に霞んでいること。歌管→歌は歌声、管は管楽器。楼台→高い建物。細細→かすかに音がするさま。 鞦韆→ブランコ。秋千とも書く。漢以後は特に宮女の遊戯。院落→屋敷内の中庭。沈沈→夜が静かに更けてゆくさま。

春夜

【通釈】春の夜は一時が千金もの値打がある。花は清らかな香りを放ち月は朧にかすみ、なんともいえぬ風情である。先ほどまで歌ったり楽器を奏したりして賑やかだった高殿も、今はかすかに音が聞こえるばかり。人気のない中庭に、ひっそりとブランコが垂れて、夜は静かに更けていく。    
【鑑賞】この詩の見どころは、まず起句の奇抜さにある。春の夜というものは、お金で換算すると千金になると云う。まさに言い得て妙である。以下承句・転句・結句と、その価値の実体を描いてみせる。美しい花、良い香り、朧にかすむ月。後半は、歌や笛の音が細々と聞こえて、先ほどまで春の夜を楽しんでいた雰囲気があり、最後には、娘たちが遊んでいたブランコが、月の光に照らされて、ポツンと下がっている情景が見える。



西亭の春望 (賈至)続天162

【作者】賈至 718~772年 盛唐の詩人。洛陽の人。735年に進士。山東省単県の尉となり、安禄山の乱の時には直ちに長安に向かい、玄宗に従って
     成都に行き、玄宗が粛宗に位を譲った時の詔書の草稿を作った。乱後玄宗と共に長安に戻り中書舎人となった。この時、門下省左拾遺には
     杜甫・中書省右補闕に岑参・賈至・王維がいた。ところが賈至はつまらぬことに連座して、岳州(湖南省岳陽県)の司馬に左遷せられ、流謫4年
     に及んだ。この時、夜郎に流される途中の李白や、江南に左遷される途中の刑部侍郎李曄と共に洞庭湖に遊び唱和した。762年、許されて長
     安に帰り尚書左丞になり、信都県伯に封ぜられ、右散騎常侍となって卒した。
【語釈】西亭→西方にある酒亭。ここでは賈至が岳州の司馬に左遷されていた時、岳陽の西にあった料亭。春望→春の景色を眺めてつくること。北雁
     →北の方へ帰って行く雁。窅冥→遠くてうす暗い空。岳陽城→岳陽楼。春心→春をもようす旅愁。
【通釈】春の日は長く風も暖かで、柳は青々としている。空には北へと帰る雁を、うらやましく眺めていると、やがてうす暗い空の彼方へ消えてしまった。
     折から岳陽楼の上で吹いている笛の音が聞こえてきた。暮れゆく春に旅愁をそそられ、洞庭湖の水とともに果てしなくわが思いは広がっていく。
【参考】洞庭湖で一緒に遊んだ三人(賈至・李白・李曄)の別れの詩がある。夜郎に流される途中の李白と共に洞庭湖で遊んだ時の、李白の詩「洞庭
     湖に遊ぶ」(教本「続天の巻」182頁)がある。また江南に左遷される途中の刑部侍郎李曄と別れた時に賦した詩「李侍郎の常州に赴くを送る」
     (教本「続天の巻」250頁)もある。

三河岳精会・第一次中国吟行会(平成13年10月12日~19日)で撮影
岳陽楼より洞庭湖を望む「洞庭湖に遊ぶ」を合吟岳陽楼の前で
岳陽楼より洞庭湖を望む「洞庭湖に遊ぶ」を合吟岳陽楼の前で


辞世(吉田松陰)天125

吉田松陰

【作者】吉田松陰 天保元年8月4日(1830年9月20日)~安政6年10月27日(1859年11月21日))。
     長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者とされる。幼時
     の名字は杉。幼名は杉虎之助または杉大次郎。養子後の名字は吉田、通称は吉田寅次郎。
     字は義卿、号は松蔭の他、二十一回猛士など。文政13年(1830年)8月、長州藩の下級武士・
     杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれる。嘉永7年(1854年)1月、ペリー2度目の来航
     の際、長州藩足軽・金子重之助とともに密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚される。
     安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開い
     ていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県
     有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。安政5年(1858年)、
     幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中・間部詮勝の暗殺
     を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により長
     州藩に松陰の江戸送致を命令。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江
     戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向
     けて「留魂録(りゅうこんろく)」を書き残す。

松下村塾

【語釈】辞世→死去する際の詩。刑死のときは臨刑の詩ともいう。君親→君公と両親。鑑照→うつして
     らすこと。神仏がご覧になる。照覧、照臨に同じ。明神→あらたかな神。
【通釈】今私は国のために命を捨てようとしている。私の行ったこと、考えたことは、一切が国の前途を
     思ってのことであって、そこに一片の私情もさしはさんでいない。志半ばで処刑されても君公と
     両親にそむくところは少しもない。悠々とした天地の間における、さまざまな人間の歴史の中で、
     後世に残るものは、自己のすべてを捧げて行った私心なき忠誠である。この忠誠こそは神のみ
     が御覧下さっているのであるから、私はなんらの後悔もなく従容として死につくことができる。
【鑑賞】悠々とした天地の間において、臣子として最善を尽くした今、神明に対していささかも恥じるとこ
     ろがない。そうした松陰の明々白々の心境が、二十字の短詩に力強く表現されている。
【解説】処刑されるに及んで自ら感じたままを詠んだ詩。安政六年十月二十日、刑死の七日前に獄中から郷里に送ったもので、みずから朗々として吟
     じたのを筆記させたとあって、大丈夫のいさぎよしとするところではなく、また雲浜が長州に来た折は咎めにあい獄中にあったので、これと相謀
     る機はなく、罪があるとすれば、日頃の幕府の専横を憎み、著述した『時勢論』の一篇を参議大原重徳卿に上り、また老中間部詮勝暗殺の計
     画をめぐらしたことである」と答えた。松陰は幕府の取調べに対して、いささかもその事実を曲げることなく、正々堂々ありのままを陳述して憚る
     ところが無かったので幕吏もそのあまりの正直さに戸惑う程であったという。松陰が“親思う心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらむ
     と詠じたその母親の人となりは、仁愛勤倹、毅然とした女丈夫で松陰の刑死にも、その言動は普段と異らなかったという。
     「留魂録」には、前記のほかに次の歌が記されている。
        身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
        呼び出しの声まつ外に今の世に 待つべき事の なかりけるかな
        討たれたる吾をあはれと見ん人は 君をあがめて えびす払へよ
        ななたびも生き返りつゝえびすをぞ 攘はんこころ われ忘れめや

【参考】1.詩吟 教本にある吉田松陰の漢詩: 磯原客舎(地の巻5頁)  楠公墓前の作(地の巻207頁)  新潟に宿す(地の巻209頁)
     2.吉田松陰についてはこちらのWebサイトが詳しいです。
     3.吉田松陰の青春時代(二十一回猛士と云った頃)の歴史秘話ヒストリア「先生 そりゃムチャです」(NHK総合TV 4月14日放送)が面白い
       NHKオンデマンド(有料契約が必要)で見られます

俳句「五月雨の」(芭蕉)続天288

松尾芭蕉

【作者】芭蕉 正保元(1644)年~元禄七(1694)年。伊賀上野生まれ。本名松尾宗房。俳人。下級武士の家に生まれ13
     歳で父を亡くし、19歳ごろには藤堂家の嗣子良忠に仕え。良忠が京都の貞門派俳人の北村季吟の指導を受けて
     いたため、芭蕉も貞門俳諧に親しむ。良忠の没後藤堂家を辞し、京都へ出奔し季吟に師事。郷里に戻った後、
     江戸に下向し俳号を桃青として、談林派の俳人と親交を深めた。談林俳諧は形式にとらわれない軽妙闊達さを
     特徴とし、西山宗因を中心に大阪で隆盛を誇っていた。新風にふれて貞門から談林へと転換していく。さらに、談
     林俳諧に限界を感じ漢詩文に傾倒し、独自の句境を見出そうと俳号も芭蕉と改める。江戸大火で類焼した深川
     芭蕉庵は再建されたが、俳諧を深化させるため「野ざらし紀行」の旅に出た。その途中名古屋で「冬の日」「春
     の日」を刊行し、蕉風の基礎を作って江戸に戻った。続いて「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」の旅に出て漂泊
     詩人としての意識に目覚めた。休む間もなく46歳のとき人生最大の「奥の細道」の旅に出発した。その後も漂泊の思い」はとどまらず、各地を
     転々として「曠野」「幻住庵記」「ひさご」「猿蓑」などを刊行した。いったん江戸」に戻った芭蕉は九州を目指すが、大坂で病に倒れ、多くの門人
     にみとられて、51歳の生涯を閉じた。
       旅に病んで夢は枯野をかけめぐる(辞世の句)
     連歌から派生した俳諧を、芸術の域にまで高めた芭蕉の功績は大きく、後に俳聖と仰がれ、その影響は今日にまで及ぶ。

中尊寺光堂

【通釈】 この場所だけは五月雨(梅雨)も降ることを遠慮したようだ。光堂が燦然と光り輝いている。
【解説】 平泉(岩手県)中尊寺光堂にての作。「おくのほそ道」には、光堂の様子が「四面新に囲て、
     (いらか)を覆て風雨を(しのぐ)暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり」とみえる。季語「五月雨」


絶句(江碧にして)(杜 甫)天158

【作者】杜 甫(712 ~ 770)盛唐の詩人。李白とともに唐代最高の詩人。初唐の詩人・杜審言の孫で、洛陽に近い河南省鞏県の生れ、湖北省襄陽県
     の人。若い頃は諸国を遊歴し、李白・高適と交わり詩を賦したりしている。長安に出て科挙を受験したが及第せず困窮の生活を送った。安禄山
     の反乱軍に捕えられ長安に軟禁されて、「春望」を詠じたのが757年46歳の時である。翌々年(759)蜀道の険を越えて成都に到り浣花渓のほと
     りに草堂を建てて住んだ。この時期が、杜甫の一生のうちで比較的平穏であり、竹木を植え酒を飲み詩を詠い、農民たちと往来した。蜀の地が
     乱れたため、また貧と病に苦しみながら各地を流浪し不遇のうちに生涯を終えた
【語釈】絶句→詩形を詩題としたもの、日本の「無題」に当たる。江→ここでは成都を流れる錦江。長江支流の錦江の更に支流が浣花渓。碧→濃い
     緑。逾→いよいよ、ますます。「愈」と同じ。欲然→「然」はは「燃」、「欲」は「将」と同じ。看→みるみるうちに。帰年→故郷に帰ることのできる日。

浣花渓

【通釈】錦江の水は深い緑色に澄み、そこに遊ぶ水鳥はますます白くみえる。山々は新緑に映え、花は燃
     え出さんばかりに真赤である。今年の春もみるみるうちに過ぎ去ってしまおうとしている。いったい
     何時になったら故郷に帰れるときがくるのであろうか。

【解説】この詩は、杜甫が四川省成都の浣花渓のほとりにある草堂で生活していたとき53歳の春に、去り
     ゆく春を惜しみ、故郷に帰りたい思いを詠じたもの。この詩を作ったころの杜甫は、戦乱のため都
     を離れて10年近くたっている。遠い山国の蜀の地で、いつ帰れるあてもないやり切れなさを詠った
     ものである。この当時の杜甫は、友人の庇護で比較的落ち着いた生活をしていたが、故郷恋しや
     の思いは募るばかり。やがて家族をひきつれ小舟に身を託して、再び放浪の旅に出る。しかし、ついにその思いをとげることなく死んだ。杜甫が
     故郷と意識するのは、都長安もしくは若き日を過ごした洛陽であった。

短歌「白鳥は」天258

【作者】若山牧水 明治18年(1885)~昭和3年(1928)。宮崎県坪谷村生まれ。早稲田大学時代に本格的に作歌を始め、北原白秋・土岐善麿らと
     親交する。尾上柴舟に師事、「創作」を創刊し終生同誌の編集・発行にかかわる。第三歌集「別離」で賞賛を浴び、前田夕暮とともに「牧水・夕
     暮時代」を形成し、「車前草社」を結成する。自然主義歌人、恋の歌の歌人として知られ、また旅の歌人・酒の歌人としても親しまれている。歌集
     に「海の声」「独り歌へる」「みなかみ」などがある。
【解説】白鳥はかもめを指しており、そのかもめの白と、空や海のそれぞれ違った青との対比が、鮮烈な印象を与
     える。空の青にも海の青にも染まることのない白い鳥のイメージは、世間と妥協せずに自己の内面の憧
     れを貫いて生きたいがゆえの懊悩や悲哀から生まれている。だが調べは、五七調でゆったりとして愛誦性
     がある。文学を一生の仕事と決めた23歳の時の作。近代短歌中の秀歌として愛されている。この歌は歌
     集「海の声」に収められている。なお初出では、「白鳥(はくてう)」「海の青そらのあおにも」とある。

静御前(頼山陽)地125

【作者】頼 山陽(1780~1832)江戸後期の儒者・史家・詩人。安芸(広島県)の人。藩儒・頼春水の長男として大阪に生まれ、若い頃から詩才を現し、
     史学に関心をいだき江戸に出て昌平校に学ぶ。21才の時、脱藩の罪で四年間自宅監禁されたが、その時「日本外史」の起草を始め28才のとき
     に脱稿。病弱のため仕官せず。「日本外史」は明治維新の志士達に多大の影響を与えた。母には特に孝養を尽くし、53歳で没した。
【語釈】工藤→工藤祐経(すけつね)。銅拍→真鍮製の円形のもの二個一対として、打ち合わせて鳴らす楽器。秩父→畠山重忠のこと。秩父出身なの
     で秩父重忠ともいう。頼朝の家臣。幕中→ここでは張りめぐらした万幕の中。一尺の布→中国の故事に、兄弟の相争うを諷したこと。況→まし
     て。繰車→糸ぐるま。ここでは静御前が舞ながら歌った歌より採っている。縷→糸。回波→舞曲の一種の名。ここでは静の舞を指す。阿哥→
     兄、義経の兄(頼朝)。南山→吉野山。

鶴岡八幡宮舞殿

【通釈】鎌倉鶴岡八幡宮の静寂なる境内、頼朝の着座を待って、工藤祐経の銅拍子と秩
     父重忠の鼓の伴奏で静が舞い始めた。万幕をめぐらした見物席では、酒を挙げて
     舞を観た。元は白拍子とはいえ、主の義経の所在が知れぬ中で不謹慎も過ぎる
     と訴える静に、頼朝の厳しい下命。意を決して舞い始めた。その歌は兄弟愛を諷
     し、一尺の布でさえ着物に縫うことも出来るのに、まして百尺の糸をもってすれ
     ば、兄弟の不仲でも回復できるでしょう。精一杯の努力で功績を立てた弟を、これ
     ほどまでにひどい 仕打ちをしなくてもよいではないか、あなたのお気持ちはどうし
     ても昔に返らぬものなのでしょうか。あなたのお気持ちが二度と昔に戻らぬからと
     いって、妾は主を慕って止みません。

【解説】源義経の愛妾・静御前が鎌倉鶴岡八幡宮舞殿で、鎌倉武士の並居る前で頼朝に追われた主・義経への思慕を表わしつつ舞う姿を詠んだも
     の。京都の白拍子であった静は義経に見染められ深い仲となった。義経は平家追討で大活躍したが、兄頼朝の許可なく検非違使・左衛門尉に
     任官したことから、頼朝の不興を買い、諸国を流浪。吉野に入ったとき静もこれに従ったが、風雪のため決別を余儀なくされた。義経はその後、
     藤原氏を頼って奥州路へ向かったが、静は捕えられ鎌倉へ送られる。頼朝は妻政子の要請を入れ鶴岡八幡宮で宴を催し、静に舞を所望した
     が辞退された。頼朝の再三再四にわたる要望を逃れられず、やむなく衣を整え舞台に上がった。その時詠った歌二首である。
          賎や賎 賎のおだまき繰り返し 昔を今に なすよしもがな
         吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき


山居雑詩 (元 好問)続天99

【作者】元 好問 1190~1257 金末の詩人。山西省忻州の人。宋朝を南方に追った第6代金皇帝章宗の時代の人。家は金王朝に仕えた士大夫であったが、平和は長く続かなかった。金王朝はジンギス汗率いる蒙古軍(元軍)に敗れ、北京を放棄して開封を都にせざるを得なかった。27歳
     の好問は母と共に河南省三郷鎮に逃れた。ここでも好問は深く学問にひたり「論詩」30首をまとめ、文人の間に知られるようになった。35歳の
     時任官試験に合格したが、金王朝末期の戦乱と重税に苦しむ農民と官の要求の板ばさみにあい憂悶は増すばかりであった。元軍の猛攻の前
     に金王朝は滅亡し、好問は捕虜として抑留されたまま68歳で死亡した。元好問は金代に於ける第一の詩人と称されている。
【語釈】痩竹→やせた竹。幽花→人知れずそっと咲く花。風有態→風がしなをつくる。
【通釈】やせほそった竹に藤のつるが勢いよくからみつき、又ひっそりと咲いている花のまわりには、夏草が乱れ
     るように茂っている。高い林の木立の間を風がしなを作るように吹き抜けてゆき、また水苔が滑らかにつ
     いた谷川の石の上を水が音もなく流れてゆく。
【鑑賞】前半(近景)、後半(遠景)ともに対句の詩で、作者が戦乱を逃れてひとときの安静を得ていた時の作で、
     清澄な気分のする詩である。山居雑詩は四首から成り、これは「其一」である。

城山(西 道僊)天114

【作者】西 道僊 1836~1913 明治時代の教育者。肥後天草五和の人。字は道僊(仙)。琴石または寛斎と号す。もとは漢方医であったが政治に興
     味を持ち、保守系の同志と鎮西日報を刊行したが意見が合わず、長崎に移住して自由新聞を刊行。明治5年の学制改革のとき長崎に瓊林学
     館を創設、英人ランドを招いて子弟の教育に当り、長崎文庫を開き長崎郷土史に寄与した。西南役が起こり大いに薩軍に同情を寄せた。西郷
     自刃の報に、この「城山」の詩を作ってこれを弔った。後に長崎区会議員となる。享年78歳で病没した。
【語釈】城山→鹿児島市のほぼ中央にある小丘、むかし鹿児島城があった。下の写真は現在の城山公園展望台より鹿児島市街と桜島を望む。孤軍
     →援軍のない孤立した軍隊。破囲還→田原坂の敗戦から各地を転戦し、官軍の包囲網を突破し、三田井を経て鹿児島に入ったこと。塁壁→諸
     方に設けられた砦。秋風埋骨→自刃したのは9月24日、秋風の吹く頃であった。故郷山→城山のこと。

城山公園展望台より

【通釈】孤立して援軍の軍勢で、諸方に設けられた官軍の攻囲陣を突破して、やっと故郷の鹿児島にたどり着いた。百里
     もあるように感じられる遠い道程は敵の砦で埋まっていた。わが剣は折れ、馬も斃れて死んだ。もはやこれまで
     である。今は吹きわたる秋風の中で懐かしい故郷の城山にこの骨を埋めるばかりである。
【解説】この詩は自詠体で作柄も似ているので、世上往々西郷隆盛の作とされ、作者が隆盛その人になりきっているとこ
     ろに誤解される原因があった。起・承・転三句は、よく実情に即した簡潔巧妙な表現で結句は、隆盛の最後の胸中
     をよく写しだしている。颯々たる秋風は身に沁みるものがあるが、清爽としてわだかまりを残さない。故郷の山に骨を埋めることのできたのは、
     人事を尽くした隆盛にとってせめてもの慰めであったろう。

祝賀の詞(河野天籟)地129

【作者】河野天籟 1861~1941 名は通雄。熊本県玉名郡長州町に細川藩御典医河野通仲の三男として生まれた。明治10年(1

877)の西南戦争に西
     郷隆盛軍に見方して参戦、左大腿部に貫通銃創を受け戦場を退いた。熊本師範学校を卒業し小学校長を歴任した。晩年は五男が住職をつと
     める玉名市の日感寺で悠々自適の生活をして作詩に専念した。昭和に入ると詩吟家との交流が多く、渡辺緑村木村岳風らの訪問が絶えなか
     ったという。昭和16年没した。享年81歳。
【語釈】四海→周囲の海。国の穏やかなことを祝う語となっている。瑞煙→瑞祥ある煙。めでたいことの現われる兆しを示す煙。五風十雨→五日に一度
     は風、十日に一度は雨。順調な気候で、豊年の吉兆。桑田→一般には桑田碧海。ここではわが国が扶桑国といわれることから、めでたいこと
     限りない国土の意に使っている。東海→東の海。中国では、わが国を東海上に存在する国と考えていたことから、わが国では自らを「東海之君
     子」と称するようになった。南山→終南山。南山の寿というように長寿を祝う語。鶴→鳥類の中で最も優れたもの。わが国にも、その姿態から崇
     尊していた事実があり、長寿のの象徴とされる。亀→日本では鶴とともに長寿をもって称される、「鶴は千年、亀は万年」。江漢→中国南部を流
     れる二大河、揚子江と漢江。尋→水の深さを測る単位。芙蓉→蓮の花。富士山頂が八朶の蓮のようになっているところから富士山に例える。
     大瀛→大きな海。神州→中国人が自国の称に用いていたところから、わが国でも自称した。磅礴→満ちあふれて、広大なるさま。九天→天上。
     天の最も高い所。大空。

鶴亀

【通釈】四方の海は波が穏やかで太平の兆しを見せ、天空にはめでたい瑞雲がみなぎっている。天候も順調で五日に一
     度の風と十日に一度の雨という気候が、程よく桑田を潤している。自然の恵みは豊かで福は東海の水のごとく
     限りなく、寿はかの南山が尽きないようにいつまでも続く。鶴は常緑の千樹の松の上に宿り、亀は揚子江や漢江
     のような深い淵の中にひそんで長寿を保っている。霊峰富士の消えることない雪は大海の水に映え、その霊気
     は神国日本に満ちあふれて大空にまで輝きわたっている。
【鑑賞】慶祝の詞は、長寿・子孫繁栄・商売繁昌にちなむものなどいろいろあるが、いずれも単に慶祝の詞だけだと、内
     容が空疎になりがちになるが、この詩は風土の美しさ・国の尊さ・あらゆる人々の繁栄を祝う意図から作られて
     おり、詩意表現にも工夫がなされている。「瑞雲」「五風十雨」「福」「寿」「鶴」「亀」など、めでたい語句を中心に詩
                         を構成し、心地よい響きの中で心からの祝意を表現している。
【参考】本宮三香にも「祝賀の詞」があり、また謡曲「高砂」には“四海波静かにて、国も治まる時つ風”とある。なお、「瑞煙」を「瑞雲」としているものが
     あるが、韻に合わず間違いである。

修学(夢窓疎石)天152

夢想国師

【作者】夢窓疎石 (1275~1351)鎌倉末期・南北朝時代の禅僧(臨済宗)。伊勢(三重)の人。姓は源、夢窓は号。9歳
     のとき甲斐(山梨)に移り平塩山寺の空阿の元で出家、10歳で母の七回忌に「法華経」を読誦したという。18歳で
     南都(奈良)に遊学し、天台・真言を修学した。後に禅宗に帰し一山一寧(中国渡来僧)、鎌倉・万寿寺の高峰顕
     日について学び、28歳で法衣法語を付され高峰の法をついだ。多数の名僧がその門から輩出し室町時代の五
     山の禅宗の過半数を占める大門派となり臨済宗の黄金期を築いた。後醍醐天皇は、夢窓を召して2度南禅寺に
     住まわせ、また足利尊氏は夢窓のすすめに従い、後醍醐天皇の冥福を祈るため天竜寺を建て開山者とするな
     ど、夢窓は公武の篤信を受けた。世に「七朝帝師」と称される。造園技術にも優れ、西芳寺・天竜寺などの庭園
     は多くの人の目を楽しませている。

西芳寺苔庭

【語釈】千載→千年。永遠。「載」は「歳」と同義。富貴→富と地位の高いこと。一朝→わずかの時間。一時。一書→一冊
     の本。恩徳→恵み。情け。万玉→多くの宝玉。千金→非常に高価なこと。
【通釈】僅か一日の浅い学問であっても自分の身につけば永遠の宝となって残るが、百年もの長い年月を経て蓄えられ
     た富や地位も、学問と違って僅かの間に塵埃となってしまうものである。意義のある一冊の本から受ける恩徳
     は、多くの宝玉にも勝るものであり、師の一言の教訓の貴重さは非常に高価なもので千金にも相当する。
【解説】学問・知識の大切さ、貴重さについて、自らの体験から述べた詩である。夢窓の生き方は、後醍醐天皇をも仏弟子となし、政敵足利尊氏
     さえ師弟の礼をもって迎えた。

雪梅(方岳)続天166

方岳

【作者】方 岳 1199-1262 南宋の頃の人。字は巨山、号は秋崖。祁門(きもん) 安徽(あんき)省)の人。紹定(しょうてい)5年(1232)の進士。吏部侍郎(りぶじろう)・秘書郎正丞(ひしょろうせいじょう)となり、のち南康・袁州(なんこう・えんしゅう 共に江西省)の刺史(知事)となった。才気鋭く詩文にすぐれ、名言佳句(かく)が多い。もともと農民の出のためか農村の景物を詠った詩が多く、秋崖小稿三十八巻が有る。
【語釈】雪梅→雪中の梅 精神→いきいきとした勢いがあって美しいこと 魂のこもったもの  俗了→平凡なものとなってしまう だめにする 全く俗に化する 魂(こころ)のないものとなる  併→合わせると同じ  十分春→春たけなわ 爛漫の春
【通釈】梅が咲いていても雪が降っていないと風景が生き生きとしたものにはならない。雪が有っても詩心が起きないようでは、せっかくの風景も平凡なものになってしまう。夕暮れ時、詩が出来上がり、また雪が降ってきた。梅と雪と詩を合わせ三拍子そろって春の情趣を十分に味わえるものである。
【解説】連作二首の「其二」で、」梅・雪・詩の字を連鎖的に用い、機知と理屈の中に軽妙な味わいの有る詩である。絶句は普通同字を重出しないのが例であるが此の詩は意識して多用している。詩の構造は平起こり七言絶句の形であって、上平声十一眞(しん)韻の神・人・春の字が使われている。

慈恩塔に題す(荊叔)天127

【作者】荊叔 生没年・出身地・官歴も一切わからない人物で、詩もこの一首だけが「全唐詩」に取り上げられているのみ。詩の内容から唐末の人とみられる。
【語釈】慈恩塔→長安(現在の西安)の慈恩寺に今も残る七層の仏塔。大雁塔のこと。高さ約七〇米、三蔵法がインドから仏典を持ち帰り保存するために建てた塔。漢国→長安のあたり。唐代の詩人は唐王朝をはばかる時は「漢」の名を使うことが多い。秦陵→秦の始皇帝の陵墓。暮雲→夕暮れの雲。千里色→はてしなく空をおおう雲の色。

大雁塔

【通釈】大雁塔に上ってあたりを見渡せば、かって漢の国都があったところ、山や河は昔のままに残っている。秦の始皇帝陵墓は、草や木が生い茂っている。夕暮れどきの雲は千里のはてまでも覆い、どこもかし
こも心を悲しませないところはない。
【鑑賞】大雁塔に上ってあたりを見渡せば、漢王朝以来の都の栄華を示すさまざまな跡と、権力をほしいままにした始皇帝の陵墓が望まれる。人間の営みのはかない移り変りと、変わることのない自然の冷ややかな対比が胸をしめつける。杜甫の「国破れて山河在り 城春にして草木深し」とよく似た表現・感慨である。杜甫の詩が「安禄山の乱」による眼前の荒廃を詠うのに対し、荊叔の詩は、次第に傾きゆく国運を自然の色の中に見るという趣きが感ぜられ、唐朝末期の作であろう。夕暮れの雲の垂れこめる下、しだいに黒ずんでゆく都の眺望は誠に印象深い。
佐藤春夫の名翻訳詩がある。
『慈恩塔の夕雲』  漢国の山河のこりて 秦陵に草木しげれる 夕ぐもは(はて)なく()えて 悲しみぞくまなかりける






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